【連載】役員の紹介「八十路を越えても」
第1回 (1) 法人代表理事 協議会会長 大岩孝平さん
中学1年生(13歳)の時、広島市段原中町(爆心地から2キロ)の自宅で被爆しました。本来、建物疎開の作業に行く予定でしたが腹の具合が悪く、母親の薦めで休んでいたところへ原爆が投下されました。爆心地付近で作業していたら命を失っていたはずでした。
大学卒業後、大手証券会社に就職しエリート社員として職務に没頭。転勤も多く在職中は他のことに手を出せなかったといいます。
退職後、当時三鷹に居を構えていた山本英典執行理事に出会ったことが被爆者運動に参加する転機となりました。持ち前の指導力を発揮する場を得て、たちまち東友会の活動をリードする役員の一員となり、飯田マリ子会長の後任を務めて早3年が経過しました。反骨精神旺盛で鋭く政府の政策を批判する一方、保守から革新まで政治家や実業家との人脈も豊富です。
日本エッセイストクラブの会員であり、「旅人木」の俳号をもつ俳人でもあります。ゴルフの腕はシングル。若い頃はプロ野球の選手になろうと思ったとも。被爆当時の惨状をはっきりと証言できる貴重なリーダーです。
(家島昌志・記)
第1回 (2) 法人執行理事 協議会副会長 山本英典さん
長崎の自宅(爆心地から4.2キロ)で12歳(中学1年生)のとき被爆。直後に爆心地から800メートルまで入市しました。
1951年に上京して大学生活をおくるなか、被爆体験を持たない学生たちが「原爆が朝鮮戦争で使われようとしている。絶対に許せない」と言って、逮捕を覚悟で原爆展を開いた姿を見て感動。大学卒業後はジャーナリストとして、新潟ミナマタ病、松川事件、公害訴訟など、高度経済成長期の日本社会が抱えた歪に取り組みました。
1981年、「原爆を裁く市民法廷」運動が始まったのをきっかけに、被爆者運動に参加しました。戦争被害はすべのて国民が「受忍」すべきとする国の姿勢を打ち破るために、原爆の犯罪性を明らかにしていった運動です。
東友会の機関紙や出版物の起案者として、集会や交渉ごとでの論客として、最前線で役割を果たし、長年、日本被団協の事務局次長としても活躍。原爆症認定集団訴訟とノーモア・ヒバクシャ訴訟では全国原告団長を務めました。
今後も、頼りになる大きな背中を見せ続けてください。
(石飛公也・記)