2026年新年号特集 鼎談 被爆80年から未来へ 協働のなかで見えた継承と支え合い
2026年の幕開けにあたり、2025年の被爆80年事業に協働して取り組んできた東友会と東京都生協連の代表3人が、原爆展や広島・長崎ピースツアーなどをふり返りながら、被爆80年を越えた未来の展望を語り合いました。(文責:編集部)
出席者
一般社団法人東友会
- 家島昌志(代表理事)
東京都生活協同組合連合会
- 秋山純(代表理事・会長理事)
- 樽井美樹子(代表理事・専務理事)
司会
- 村田未知子(一般社団法人東友会 事務局長)
本鼎談は2025年12月17日に東京都生協連事務所でおこなわれました。
鼎談にのぞむ3人(左から樽井、家島、秋山の3氏)
司会 昨年(2025年)、被爆80年という節目にあたり、東友会と東京都生協連は、これまでにない形で協働して被爆80年事業に取り組みました。具体的には、原爆パネル展と広島・長崎ピースツアーが柱でした。今日は、その意味や手応え、そして81年以降をどうつないでいくのかについて、率直に語り合っていただければと思います。
家島代表に、被爆80年事業を「協働」で進めようと考えた理由からうかがいます。
被爆80年事業を「協働」で進めた背景
家島 この話は、村田事務局長からの提案がきっかけでした。被爆80年という年を、私たちはかなり重い気持ちで迎えました。
東友会の会員は、かつて1万人を超えていましたが、現在は約3000人です。平均年齢は86歳を超え、90歳以上の方も珍しくありません。被爆者は毎年確実に減っていき、体力的にも、また気力の面でも、以前と同じような活動を続けることは難しくなっています。
被爆80年は、被爆者にとって最後の大きな節目になる可能性が高い。多くの被爆者が「90年は迎えられないかもしれない」と、はっきり口にするようになっています。
だからこそ、被爆80年を、被爆者だけの内向きの取り組みに終わらせてはいけないと考えました。被爆の体験や記憶、被爆者の願いを掲げた運動を、どうすれば次の世代、その先の世代に手渡していけるのか。被爆者が語れる時間が限られている中で、誰と、どのようにつながるのかが問われていました。
司会 その中で、東京都生協連との協働という判断に至ったわけですね。
家島 そうです。東京都生協連には約300万人の組合員がいると聞いています。子育て世代を含め、これからの社会と平和を担っていく人びとが数多くいます。
東友会がご一緒してきた団体は、原水協や民医連、反核医師の会など、平和を願う団体ですが、もっと枠組みを広げなければという思いがありました。将来の平和を背負っていく人びとに伝えていくことを考えたとき、今の延長線上だけでは不十分と感じていました。
東京都生協連の皆さんと一緒に取り組むことは、被爆80年を「次につなぐ年」にするために、避けて通れない選択だったと思っています。これまでも証言活動や継承の取り組みで協力してきた経緯があり、その信頼関係が今回の協働につながっています。
秋山 私たち生協側としても、被爆80年をどう迎えるのかは、大きなテーマでした。
最初に家島代表理事と村田事務局長から協働のお話をうかがった際に、「被爆80年は、被爆者が参加できる最後の節目になるかもしれない」という言葉がありました。そのお話を聞いた瞬間、「断る」という選択肢はないと率直に感じ、会員生協の皆さんと一緒に協力したいと思いました。
生協は、平和な社会を大切にすることを掲げて活動してきましたが、それを具体的にどう行動に移すのかが、常に問われています。被爆80年という現実の重みを前にして、東友会さんとの協働は自然なことだったと感じています。
原爆パネル展に込めた意図と反響
司会 被爆80年事業の大きな柱のひとつ、原爆パネル展についてお話しください
家島 今回の原爆パネルは、核不拡散条約(NPT)再検討会議のとき、被爆の実相を世界に訴えるため国連ロビーに展示されてきたものです。
これまで東友会単独で原爆展をおこなってきましたが、東京という大都市で、より多くの市民に届けるためには、被爆者団体だけでは難しい。その点で、東京都生協連さんの協力は不可欠でした。
樽井 今回の原爆パネル展は、10日間で約1500人の来場者がありました。私自身は、大変多くの都民のみなさんに足を運んでいただけたと考えています。
そして会場の雰囲気も、私たちが経験してきた従来の展示とはまったく違うものでした。一人ひとりがパネルをじっくり読み、被爆者の話に耳を傾けていました。
「被爆者と直接話せると聞いて来ました」という声がとても多かったことが印象的です。大学生が、初日の夕方に来場されたのですが、時間の都合で話を聞けず、「どうしても話を聞きたい」と翌朝あらためて来場したくれたこともありました。
親子連れの来場が多かったのも特徴です。いったん帰宅してから兄弟を連れて再び来てくれた人もいます。
司会 原爆展のチラシに「被爆者と直接お話しできる」という一文が入っていました。被爆者は来場者と対話することを意識して毎日会場に詰めていました。
樽井 展示を見るだけでなく、被爆者と直接話をすることで、「あらためて原爆の恐ろしさを知った」、「核兵器禁止・廃絶がすべての人びとに必要であり、現在も未解決の課題であることがしっかり伝わった」、「未来のために、もっと知らなくてはいけない、感じなくてはいけない」という感想が多く寄せられました。
ひとりの子どもさんが、「被爆者がお水を欲しがったと知ったので、僕は水色で鶴を折りました」とメッセージを残してくれました。自分なりに想像し、考えてくれたのだと思い、胸が詰まりました。
家島 被爆者自身にとっても、このパネル展は特別な意味を持っていました。
国連で展示されたパネルを、日本で、しかもまとめて見る機会は多くありません。展示を見ながら、「改めて学び直した」という声が、被爆者からも出ました。被爆の記憶を伝える立場であると同時に学ぶ立場でもある。そのことを実感した展示でした。
来場者との対話も、「新鮮な経験になった」という声がたくさんありました。
秋山 東京都生協連としても、今回のパネル展は大きな学びでした。来場者数も大事でしたが、来場いただいた一人ひとりが何を感じ、どう受け止めたのか。その「深さ」が何より大切だと改めて感じました。「被爆の事実を初めて知った」との声も多く、まだ伝えるべきことがあるのだという現実を突きつけられました。
生協側からみた協働の決断と81年への視点
家島 被爆80年は、単なる「区切りの年」ではなく、被爆者が語れる時間が確実に終わりに近づいているという現実を突きつけられた年です。だからこそ、原爆パネル展も、単発の催しで終わらせてはいけないと思っています。展示をきっかけに、どう次につなげるのか。その問いが、常に頭にありました。
秋山 私も同じ思いです。被爆80年をどう受け止めるかは、被爆者だけの問題ではなく、社会全体の課題だと思っています。東京都生協連として、被爆者の皆さんの思いをどう受け止め、どう行動につなげるのか。そのことを考え続けた1年間でした。
司会 秋山さんは「81年をどう迎えるか」という問題提起もされていますね。
秋山 はい。生協総合研究所発行の冊子の巻頭言を書く機会をいただきました。テーマは「被爆戦後81年を私たちはどう迎えるか」です。広島のピースツアーが終わった頃に原稿を提出しました。文字数の制約があり、3つの点に絞って書きました。
1つ目は、被爆者の高齢化と地区の会の縮小が進む中で、生協との連携をどう深めていくかという問題です。これまでも私たちは「連携」という言葉を使ってきましたが、それは多くの場合、外から応援する・支えるという意味合いでした。しかし、これからは、もう一歩踏み込んだ関係が必要なのではないかと感じています。例えば、地区の会の運営そのものに、可能な範囲でお手伝いとして関わることができないか。これは、東友会や被爆者の皆さんがどう考えるかという前提がありますが、もし許されるのであれば、地域ごとに生協のネットワークを生かした支え方ができるのではないかと思いました。江東区や練馬区など、すでに地域のネットワークがあるところでは、パネル展や学習会などもおこなわれています。そうした取り組みを、点ではなく面で支える関係で考えたいという問題提起です。
家島 その話を聞いて、被爆者としても、考えさせられるところがありました。被爆者団体は、自分たちだけで何とかしなければならないという思いを長く抱えてきました。一方で、高齢化が進み、運営そのものが難しくなっている地域もあります。「中に入って一緒に」という提案は、簡単なことではありませんが、現実的な課題として東友会としても受け止める必要があると感じています。
二世・三世とのつながりという課題
司会 秋山さんが挙げた2つ目の論点は、被爆二世・三世とのつながりでしたね。
秋山 今回のピースツアーには、二世、三世の方も参加していました。
被爆の体験を直接語ることはできませんが、家族として被爆の事実と向き合ってきた経験があります。その存在をどう位置づけ、どう役割を共有していくのかは、これからの大きな課題だと思います。
被爆者が高齢化する中で、すべてを「次に任せる」という話ではなく、被爆者が元気なうちに、どう一緒に活動し、どう引き継いでいくのか。そのプロセスを意識的につくる必要を感じています。
家島 東友会としても、二世・三世の問題は長年の課題です。二世・三世の中には、「被爆者の体験を語れるのか」という迷いを抱えている人もいます。一方で、家族として被爆の事実と向き合ってきた経験は、決して軽いものではありません。
被爆者が語れなくなる時代に向けて、どういう形で関わってもらうのが最善か。簡単に答えは出ませんが、避けて通れないテーマです。
相談活動と被爆者の暮らしの現実
司会 被爆80年の事業を通じて、被爆者の暮らしや相談活動についても、改めて考えさせられました。
家島 被爆者の高齢化が進み、独り暮らしの人が増えています。相談内容も、医療や介護、原爆症認定や各種手当の手続きなど制度のことだけでなく、生活そのものに関わる内容が多くなっています。
「迷惑をかけたくない」という声も多く、被爆者であることを周囲に知られたくないという思いも根強くあります。そのため、名簿をオープンにして地域で支え合うという仕組みは、簡単にはつくれません。けれども、孤立を防ぐための相談活動はますます重要です。
司会 一度の相談で終わるのではなく、同じ人から何度も電話がかかってきたり、訪問を重ねたりするケースもあります。相談員にとっても、重い責任をともなう活動です。
秋山 生協としても、被爆者を支えるためには「実態」をもっと知る必要があると感じました。
証言活動だけでなく、今どのような相談があり、どのような支えが必要とされているのか。そこを理解することが、今後の連携の前提になると思います。
ネットワークをどう広げるか
司会 秋山さんが挙げた3つ目の論点が、団体間のネットワークでした。
秋山 東友会と協働する中で、第五福竜丸展示館や戦災資料センターなど、多くの団体とのつながりを意識するようになりました。それぞれの活動は尊重しつつ、ゆるやかにつながり、情報や人を行き来させることで、より大きな力になるのではないかと感じています。
生協は、地域生協や大学生協などをはじめ、被爆の継承を担える若い世代との接点があります。そうした生協内外のネットワークを生かし、東京全体で平和と核兵器廃絶を考える場を広げていければと思います。
樽井 ピースツアーで、被爆者の方と一緒に歩き、話を聞きながら被爆遺構を巡った体験は、参加者の皆さんの心に深く刻まれました。今回の事業を通じて、これまでつながりのなかった生協と東友会の新たなつながりが生まれています。被爆80年のこれらの取り組みを一過性の取り組みで終わらせず、継続的につながり続ける方法を考えていく必要があると感じています。
被爆80年を越え、81年以降を見すえて
司会 最後に、被爆80年を越え、81年以降をどうつないでいくのかについて、お考えをお聞かせください。
家島 80年事業を線香花火で終わらせてはいけません。被爆者の証言や記録をどう生かし、運動をどう継承していくか。簡単な課題ではありませんが、努力を続ける必要があります。
樽井 生協の組合員の中からも、被爆者とのつながりを求める声が多く上がっています。都内世帯の約3分の1が生協組合員です。その規模を生かし、被爆の実相を伝える機会を今後もつくっていきたいと考えています。
秋山 これからも被爆者の皆さんを主役に、被爆二世・三世とのつながり、そして多様な団体とのネットワークづくりを進めていくこと。そして、外から応援するだけでなく、中に入って一緒に取り組む関係を、生協として模索していきたいと思います。
司会 被爆80年は終点ではなく、新たな出発点です。今日の鼎談で語られた思いを、今後の活動につなげていければと思います。ありがとうございました。