被爆者相談所および法人事務所
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【特集】東京都被爆者援護条例の成立から50年

被爆者健診や介護手当の拡充、被爆二世の施策などを成文化

 東京都被爆者援護条例(正式名称・東京都原子爆弾被爆者等の援護に関する条例)が東京都議会で成立したのは1975年10月。2025年はそれから数えてちょうど50年目にあたります。東京都被爆者援護条例の成立にあたっては、東友会に集う東京の被爆者の努力はいうまでもなく、多くの都民の支援を受けて成立を勝ち取ったものです。「東友」本号では、同条例成立50年を記念して、特集を組みました。当時の社会情勢と被爆者運動の様子などを振り返りつつ、これからの被爆者援護のことを取り上げてみます。

都との関係は最初から

 東友会は、1958(昭和33)年の結成以来、そのとき被爆者が置かれていた実情をふまえて、様ざまな要求を掲げて活動してきました。
 国・政府に対して被爆者援護施策の充実や法律(被爆者援護法)の制定などを要求してきたのはもちろんですが、自治体に対しても、できることを要求してきました。1959年10月発行の「東友」第5号には、自治体への請願行動が取り組まれ、「先月23日、東友会として都議会議長宛に原爆被害者援護についての請願を提出した」との記述が掲載され、都下の区市町村でも同様の活動が展開されたことが報道されています。「東友」バックナンバーを見ると、東京都に対する本格的な請願行動は1965(昭和40)年から始まったことが述べられています。
 東京都も、被爆者の要請に応えて、行政措置として援護施策を実施してきました。しかしながら、被爆者の実情にそぐわない不十分なこともたくさんありました。それでも東友会は、東京都や都議会に粘り強くはたらきかけ、必要に応じて対都交渉を続けてきました。

1970年代に入って

 1970年代に入るまえから、大阪万博のキャンペーンが大々的におこなわれ、社会全体に「戦後は終わった」という雰囲気が色濃く表れてきました。しかし被爆後25年、いまだ原爆被害に対して国は責任を果たさないまま被爆者は年老いていきました。さらに原爆被害が忘れられていくことに危機感を抱いた東友会は、1970年に被爆25年広島・長崎墓参団を派遣します。実施にあたり東友会は、都民からの寄金を募り、墓参団の報告もおこなって、原爆被害の実相、被爆者が置かれている現状を広く社会に示します。墓参団にはマスコミ各社も随行。大きく報道されました。これは、被爆者の課題を被爆者だけで処理するのではなく、幅広い都民・国民の理解を得ていっしょに解決していこうという姿勢の表れでした。
 全国的にも、国家補償にもとづく被爆者援護法の要求はますます強くなり、この時期の「東友」にも援護法関係の記事が大きく取り上げられています。これと同じ趣旨で、東京都でできることは東京都でも対応してほしいと、対都交渉も活発になっています。
 ただ、この時期の「東友」は年2、3回の不定期発行だったので、「東友」で報道できることは限られていました。『東友会25年史』など過去の年史を参考にすると、都条例については「1971(昭和46)年10月26日の東友会常任理事会で『援護条例』の成文化が打ち出され」たとの記述が残っています。
 1972(昭和47)年3月発行の「東友」第60号には、「定期検診受診に千円――全国で初 都の被爆者対策進む」という見出しの記事が載り、「政府へ被爆者援護法の制定を訴える運動が進むかたわら、東京都に対しても各区市に対しても、自治体として被爆者援護対策を進める運動が進んでいます。かつて1965(昭和40)年、東京の対自治体要求は全国の模範となり、そのご全国でも運動が進」んでいることも報道されています。
 東京都・都議会への請願行動は毎年おこなわれ、条例制定の要求もありましたが、「東友」紙面では1973(昭和48)年7月発行の第64号1面に、「都援護条例めざし地区の会の運動交流」という大見出しが登場する一方、国・政府に対する援護法制定の活動が活発化していったこともあり、自治体の条例制定運動は相対的に足踏み状態となっていました。

記事そのものは「15周年迎え さらに前進へ」という大見出しで東友会総会の内容を伝えるもの。その最初の見出しが「都援護条例めざし地区の会の運動交流」。他に「十万人署名達成へ」の見出しがある。
都条例制定の運動を伝える「東友」第64号(1973年7月発行)

 1974(昭和49)年5月発行の「東友」第67号に、「援護条例案づくり 東友会が検討始める」の見出しの記事が載ります。
 ここでは、国家補償にもとづく被爆者援護法要求の行動の進展に触れるとともに、「東友会でも、援護条例に対する取り組みは早くからあったのですが、その後の進展は度重なる被爆者援護法の全国行動に勢力がさかれてはかばかしくありませんでした。最近になって、『われわれの自治体である都に対する要求も整理して行動しよう』という声があり、まずその後の情勢をふまえて要求していく援護条例を案文の再検討を進めています」と書かれています。
 こうした仕切り直しを経て、東京都・都議会に対する被爆者援護条例制定の運動が再び活発化していきました。

机を囲んで座る副知事など都職員と被爆者。
東京都副知事と交渉する東友会役員たち(1974年8月1日)

 1975(昭和50)年1月発行の「東友」第69号は、1面で「被爆30年 今年こそ援護法を」の大見出しを立てて年頭の課題を掲げており、3面の半分を使って「東友会 14項目の陳情出す――被爆者援護『都条例』の制定を 都議からも支持集まる」の見出しで、都条例要求の現状を説明し、都条例に賛同した各会派の都議の名前が紹介されています。

被爆者援護条例が成立

 そして1975年11月発行の「東友」第71号1面には、トップ記事で「被爆者援護条例できる――都議会で全会一致 都道府県で初めて」の見出しのもと、10月10日の都議会で「東京都原子爆弾被爆者等の援護に関する条例」が可決・成立したことを大きく報道しています。ただ同時に、「内容の充実が今後の課題」とも述べています。
 「この条例は8つの条項からなり、その主な部分は知事の行う援護措置ということで、介護手当の支給、健康診断受診奨励金の支給、被爆者の子に対する健康診断の実施、その他(都営住宅の優先入居、都営交通の無料パス、委託事業)となっております。(「東友」編集部注:現在、都営住宅の優先入居はありません。)都県段階での援護条例の制定は全国でも初めてのことであり、被爆者の援護についての新しい道を作るものとして一定の成果は認めます。しかし、内容としては都が従来行ってきたことを条例化したものに過ぎず、目新しいものは全く見出すことはできません。(中略)結果的には新しい内容を盛り込むことはできなかったのですが、私達の働きかけは各党の委員を動かし、前記の要求項目の(1)被爆者の子どもの治療費を都費で、(2)介護手当の病状のワクの拡大、および(健康診断の)検査項目の拡充という付帯決議をつけさせ、都条例の内容充実への足がかりが作られ、今後の都側への働きかけがさらに急務になっています」

記事内で紹介した見出しの上部に、さらに大きく「『援護法』への決意新たに」の見出しがあり、原爆ドームの写真が掲載されている。「援護法をはばむカベは何か」という解説のカコミ記事もある。
1面トップで都条例の成立を伝える「東友」第71号(1975年11月発行)

 実際、東友会は粘り強く東京都と都議会に要求をくり返します。1976(昭和51)年1月発行の「東友」第72号では、「二世の治療費など要求――厳しい地方財政のなかで――都援護条例充実の運動」の見出しで、都条例制定の意義とその後の交渉の経過を説明しています。そして同年7月発行の「東友」第73号1面には、「『被爆者の子どもの治療費』を都費で 10月実現へ」の見出しがトップを飾り、都が昭和51年度予算の中に(1)被爆者の子どもの治療費と、(2)一般検診について厚生省できめられた検査に心電図、胸部X線撮影の2項目を加えることを都議会に提案し、7月3日の都議会本会議で満場一致で可決されたことが報道されています(実施は翌1977年から)。これが、現在の被爆二世への医療費助成制度の始まりです。

「東友」第73号紙面。被爆二世への医療費助成の記事以外には、「新たな決意で運動を」の見出しで東友会総会の記事がある。
)被爆二世への医療費助成の実現を伝える「東友」第73号(1976年7月発行)

成果とこれからの課題

 半世紀前に被爆者援護都条例を実現させた調査や請願の行動に参加した人たちは、すべて他界しました。しかし、この人びとの残した「遺産」がいま、多くの被爆者と被爆二世に活用されています。
 この「遺産」は、被爆者には、介護手当への上乗せと健康診断の検査項目の追加などです。東京都保健医療局年報の2023年度の実績を見ると、年間1500件を超える一般介護手当と350人の家族介護手当への上乗せとなっています。
 被爆二世に対する施策は、被爆者と同じ健康診断の検査項目の追加とがん検診、医療費助成です。最高齢者が80代になろうとする被爆二世には生活習慣病が多発しています。医療費の助成は、都道府県レベルでは東京都と神奈川県だけですが、東京では2023年度に3万5000件の申請が受理され、支給総額は2億3500万円となっています。
 先人が勝ち取った成果を、次世代にも生かす運動が、これからの課題です。

横断幕を持つなど、何列にもなって座る被爆者たち。たすきをかけている人も多い。
被爆二世の医療費助成に関する予算削減のうごきに対し、「制度を後退させるな」と、寒風のなか都議会前に座り込む被爆者と支援者たち。(1999年12月)
東京都被爆者援護条例と被爆二世に関わる年表
とき できごと
1971年11月 東友会、活動方針の重点目標に被爆二世の施策と組織化を初めて盛り込む。
1972年から 東友会、被爆二世健康診断、医療費助成を求めた都議会請願を強化。
1972年11月 「東京被爆二世の会」結成(1980年ごろ活動停止)。
1973年5月 東京都衛生局(当時)、被爆者の親を対象に被爆二世調査、34%回答。(東友会が提唱し調査委員にも参加。)
1974年4月 東京都、被爆二世の健康診断を実施。
1975年10月 東京都議会、東京都原子爆弾被爆者等の援護に関する条例を可決・成立。被爆二世の医療費助成は盛り込まれず。
1976年7月1日 都議会衛生経済物価清掃議会委員会で「被爆者に子どもを産ますな」と都議が発言。
1976年7月3日 東友会、発言した都議に公開質問状を手渡す。
1976年7月4日 日本被団協が第20回定期総会で、都議への抗議文を採択。
1976年7月27日 東友会代表が参考人として都議会で意見陳述。同日、都議会が被爆者の援護の推進に関する決議を採択。
1977年4月 東京都、被爆二世医療費助成を実施。
1984年11月 国、財団法人日本公衆衛生協会に被爆二世の健康診断を委託。
1988年5月 国、被爆者健診にがん検診を追加。東京都、被爆二世に同様のがん検診を追加。
1990年4月 東京都、被爆者と被爆二世の健診に大腸がん検診を追加。2年後国の事業に。
2000年4月 東京都、被爆二世の医療費助成から入院時の給食費を除外。
2003年7月 国、被爆二世健康診断を国の事業として各都道府県知事、広島・長崎市長に委託。
2010年8月 2人の被爆二世から医療費助成の継続申請を却下されたと東友会に相談。内容は、乳がん・2年前手術、中咽頭がん・1年前手術。東友会、都庁に連絡しつつ異議申立の準備。
2010年9月1日から 東友会、都議会請願の準備と各会派への要請。
2010年9月16日 東友会、「被爆者の子(被爆二世)の医療費助成に関する請願」を都議会に提出。
2010年12月 都議会、「請願」全会派一致で「意見付採択」。
2011年6月 東京都、医療費助成申請の書式を大幅に簡略化。
2012年7月 東京都、東友会との懇談会で被爆二世医療費助成の更新期間の延長を2013年度から実施すると回答。
2013年1月 東京都、「被爆者援護条例」の「施行規則」を改正。被爆二世医療費助成の更新期間を2013年度から2年間に延長。
2013年4月 東京被爆二世の会(おりづるの子)結成。
2023年4月 東京都、被爆二世の胃がん検診に胃内視鏡検査(胃カメラ)を追加。被爆者本人は、国の施策として2016年11月から実施。その後、東京都の独自施策である被爆二世の胃がん検診にも同様の選択ができるよう要望していた。