被爆者相談所および法人事務所
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「最高裁への手紙」――被爆者から最高裁判事へ
被爆の実態、被爆者の思いに光を当ててください

 2020年1月21日、ノーモア・ヒバクシャ訴訟の原告3人に関して最高裁が原爆症認定基準の「要医療性」についての弁論を開きました。
 この弁論に向けて、ノーモア・ヒバクシャ訴訟全国原告団・弁護団と日本被団協は、生涯にわたる被爆者の苦しみをナマの言葉で最高裁の裁判官に知らせたいと「最高裁への手紙」を寄せるようよびかけました。
 東友会に届いた57通の「手紙」から12人の「手紙」の要旨を掲載します。(順不同・敬称略)

横書きで手書きされた「手紙」の束。付箋がつけられているものもある。
寄せられた「最高裁への手紙」

梅林正子

 眼球が飛び出し、耳からの出血にもがき苦しみ、脱出した腸を引きずりながら、女性までも丸裸に。チョコレート色に焼かれた人びと。死ぬも地獄、生きるも地獄のなかから、生きながらえた被爆者の生涯にわたる不安と悲しみをご理解ください。

森正幸

 私は翌日の入市被爆です。一番恐かったことは、家族を捜すため連日被爆地を歩き廻り、やがて体調を崩し、頭髪が抜け、歯ぐきから出血して死んだ人がたくさんいたことです。当時は原因が全くわからず途方にくれていました。今思うとこれが放射能のせいだったのです。目に見えず命までうばう放射能の恐さは体験した者でないとわからないと思います。

川俣フミエ

 私は入市被爆した後、体調が良くなく、寝たり起きたりの生活になり不安でいっぱいでした。いろいろな病気とたたかいながら入退院し、今は寝たきりですが、生きています。最近、血小板が極端に減少する病気で2週間に一度、介護タクシーで通院し治療してもらっています。
 年老いた被爆者が、75年も経つのに、裁判で争わなければならないのが現状です。

飯田千枝子

 私は原爆投下後、海軍病院に約2カ月余勤務しました。所属した病棟では運び込まれた人全員が死亡しました。生き残った方がたは本当に幸運なのでしょうか。後遺症に苦しみ、悩み、病弱で仕事もできず、生活もままならず、年齢的にも高くなり、動きも大変になってきますが、とにかく生きてこられたのです。そして、助けを求められているのです。国がつくった病人です。

大岩孝平

 原爆に起因する病気は、まだ解らないことが多くあります。理屈では説明できないことが多々あります。それを実感しているのは被爆者です。
 さまざまな苦難を乗り越えてきた被爆者が80歳を越えて、裁判で争わなければならないことは異常なことです。

村山季美枝

 病を発症するたびに、いつかは私にも襲ってくるであろう放射線の障害を考えさせられています。国はこうした心に真正面から取り組むこともなく、被爆時の距離や時間でのみ、判断してきました。残り少ない人生を裁判に時間をかける被爆者の無念さをご理解ください。

吉重信

 被爆から70年後、がんになり右尿管と腎臓の摘出手術を受けました。被爆直後、母は私を連れて何度も爆心地付近の友を探しましたが、近衛兵だった父の考えで入市のことを書かずに被爆者手帳を受けました。このため原爆症と認定される条件になく困っています。

湊武

 要医療性についてですが、私は前立腺がんの手術後4年にはいっています。3カ月に1回は病院で尿と血液の検査を受けていますが、薬は飲んでいません。医者は、再発することも考えられるので、定期的に経過観察をしていると言います。「要医療性」を広い意味でとらえてください。

広中弘道

 わが家は全壊した後、全焼しました。わが家の灰の中に弟の遺骨を発見しました。母は「私はどんな悪いことをしたのでしょうか」とつぶやきました。
 2019年末に老人ホームを訪ねたとき、家族が全滅し生涯独身を通した92歳の女性被爆者が、「私は余りにも長く生きすぎた。生きていても何の楽しみもない。早く死にたい」と言っていたことが忘れられません。

高橋和子

 私は広島の2キロのところで被爆し、がんに原爆症の認定がおりました。でも中学生だった弟は、1.5キロのところで熱線を浴び、背中、顔から手に火傷。生き地獄を味わいながら醜いケロイドとなりましたが、治っているので原爆症の認定がおりませんでした。法は矛盾だらけで憤りを感じます。

渡辺テル子

 私の両親は、坂本町、城山町などの爆心地を、毎日親戚の人を探し回りました。父はその後体調を崩して、5年後に亡くなりました。放射能の恐ろしさは何も知らず過ごしてきましたが、今は不安です。

今中勲

 横川駅付近で被爆した姉は骨と皮ばかりに痩せ細り痛みに苦しみながら26歳の若さで亡くなりました。入市被爆した私は悪性リンパ腫を患い、再発を恐れながら生きています。
 被爆者の苦しみを言葉で伝えることは、本当に難しいことです。最高裁まで争わなければ理解してもらえないことは残念でなりません。

最高裁の門前に集った要請団(2019年11月)