被爆者相談所および法人事務所
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原爆の傷をさらしても 東友会の訴え (ほぼ全文)

東友会会長 田川時彦

 田川でございます。ご挨拶を申し上げます。本日は、各政党代表の方、都内の各団体代表の方、都民の方、そして各地域の被爆者代表の方、大勢集まっていただき、私どもを励ましていただき、つどいを成功させることが出来ます。大変ありがたい。最初に感謝申し上げ申し上げます。
 天気晴朗なれど波高し…。私どもの年代では思い出す言葉でございます。確か日露戦争の時の東郷元帥の言葉です。別の意味でその事を今朝感じました。大変お天気が良い。けれど新しい21世紀を迎えて…被爆者は新世紀に向かって、21世紀は核兵器のない世界をつくるんだ、できるだろう…と、大きな期待を持って迎えましたけれども、まさに波高しの新年でもございます。飢えた子どもを目の前にしながら核兵器開発に奔走する北朝鮮の態度。イラクでは一触即発の核戦争の危機を迎える今年(2003年)の最初。被爆者としてはいたたまれない気持ちでおります。どうか核戦争のない、核兵器のない世界が一時も早く訪れることを願って止みません。長い間運動し続け、38年、もうずいぶん遠く感じますけれども、被爆者はいろんな思いで運動を続けてまいりました。
 被爆者は決して同じ思いで被爆したわけではございません。思想も信条も、宗教的信仰も違います。しかし、あの地獄だけは決してくり返してはならない。これだけは皆一致して運動を続けてきました。いろんな考え方がある中で、一致する点を確かめあいながら今日まで運動してまいりました。もちろんその間、多くの人達に励ましをいただいて、私どもを勇気づけていただいたからこそ、続けてくることができたわけですが。
 長い間の戦後史の中で、被爆者はいつの間にかある見方、物の感じ方、そして行動の仕方に、だんだん被爆者なりのものを築きあげてきたと思います。今日はその一節を私の感想も含めながら申し上げて、挨拶に代えさせていただきます。
 今から4年前、大崎のO美術館で東友会は原爆展を開きました。その時に証言に立った葛飾区の金子さんが、次のように語りました。
 「母は寝床から、かすれ声をふりしぼって、口癖になっていた言葉をくり返しました。『宏正、口が裂けても原爆に遭ったことは人に言うな。ピカのことは誰にも言うな』。今でも母ちゃんのうめき声と姿が私の心に残っています。母は、42歳で亡くなりました」。
 金子さんが語った一節です。なぜ金子さんのお母さんは口癖のように原爆に遭ったことを人に言うなとくり返したんでしょうか。また金子さん自身は、そのことを聞いているにも関わらず、なぜ…島崎藤村じゃありませんが、「破戒」して、禁を破って、美術館で皆さんに証言したのでしょうか。被爆者の苦しみと決意がこの中にこめられているように思います。
 原爆が投下されて、戦争が終わって、間もなくのことです。被爆者はよく覚えていますが8月24日付けの新聞で、「広島・長崎は今後70年間、草木はもちろん一切の生物の棲息は不可能であるとアメリカでは放送されている」と報じられました。このニュースは、被爆者はもちろん、広島・長崎の市民を恐怖に陥れました。その中に生きていたのですから。自分たちが草木も生えないところに住んで、やがて死んでいかなくちゃならないということを覚悟させられる。それくらいの恐怖を感じさせた報道でした。その報道もさることながら、そのことが非科学的ないろんなうわさ話を全国に流していきました。非科学的な社会的な差別を繰り広げさせてしまったのです。
 これは神奈川県の人ですが、「銭湯の人に『悪いけどね、もう、うちには来ないで下さい。あなたのケロイドが移るのじゃないかという人がいましてね』と断られてしまいました」。そういう人がいます。
 「『我が家には被爆者の血は入れたくない』と婚約を断られました」…これは東京の被爆者であるお母さんが、お子さんのことを泣いて語られた言葉です。他にも、保険の勧誘が来て、被爆者だと言ったら慌てて帰っていったとか、いろんな例がございます。
 「ピカに遭ったことを誰にも言うな」金子さんのお母さんの言ったことが分かるような気がします。我が子にこうした惨めな思いをさせたくないというお母さんの気持ちだろうと思います。
 千葉県の被爆者の方ですが、3度も戸籍を変えて長崎出身であることを隠したかたもいます。
 東友会というのは東京都原爆被害者団体協議会の通称です。被爆者という文字の入った封筒で皆さんにお手紙を差し上げることは控えています。初期の頃は特にそうでした。通称の「東友会」です。今でも多くの地区の会では「○○友の会」と配慮をして手紙を出していらっしゃる。みな、そういうことと関係があることです。
「話せない」「思い出したくもない」「書けない」…被爆者の気持ちを吐露した1つの証言でもあります。それだけではありません。
 「大きな棟木で押しつぶされ、『お母さーん!熱いよう!』と叫ぶ我が子をついに助け出すことが出来ませんでした。子どもを私は見殺しにしたのです」「多くの学生が殺されたというのに、自分だけが生き残ってしまった。私は被爆者です、などと、どのつら下げて言えるか」
 生き残った者は死者に対しての負い目を感じ、罪の意識で苦しみました。
 「できることなら、他の人と同じように、原爆とは無関係に、明るく戦後の人生を生きたかった。しかし、被爆者にはそれができませんでした」。
 からだ、こころの中に巣くってしまった原爆は、消しても消すことができなかったのです。
 隠そうとも隠すことができないのが、顔や手にあらわれたケロイドの醜さです。その傷のために、どれだけ被爆者が苦しんだか。
 広島の教師の話ですが、跳び箱を跳んでみせることができず、「足の皮膚がくっついて動かない。許してくれ」と泣いて謝った男の先生。被爆の惨めさをだんだん知らなくなった子どもたちに「オニババだ」とむごい言葉を投げつけられた、ケロイドのある女教師。その中で、教師は決意をします。「どうせ隠すことができないなら、この傷をさらして平和教育に徹する」。そして、「この傷はね…」と言って子どもたちに語りかけ始めた。それが、広島・長崎の平和教育の最初でした。
 半生を教科書裁判に打ち込んで、このあいだ亡くなられた家永三郎さんの名著「戦争責任」の中には、1965年から15年間にわたって新聞に載った被爆者の自殺の記事を書き抜いて紹介している部分があります。
 「あの日の傷消えず 被爆女性が自殺 『働く気力を失った』(1974年)」。「被爆主婦 顔のケロイド苦に自殺(1979年)」、ある母親の自殺 顔の傷跡重く(1981年)」。短い新聞の見出しですが、こういう記事が続いています。
 原爆一号と言われる広島の吉川清さんという方がいらっしゃいます。この方は背中全面がケロイドになって広島の日本赤十字病院へ最初に入院された方ですが、ある時、病院にアメリカの占領軍の高官が30数人訪れてきたそうです。そして、院長の重藤文夫先生、そして東大教授であったの都築正男先生が当時いらっしゃって、先生2人が吉川さんに、「あなたのケロイドを米軍の将校達に見せませんか」とおっしゃった。吉川さんはそれをすぐに納得できなかった。「こんな侮辱があるか」。腹を立てて、なかなかうんと言わなかったんですが、重藤先生や都築先生をたいへん尊敬していただけに、ある時、思い返します。「そうだ。原爆を落としたアメリカの将校たちにこそ、私の傷を見せてやる」。一転、彼は背中を丸出しにして、アメリカ軍の記者達のカメラのフラッシュを浴びて、有名なケロイドの写真がありますけれども、それをアメリカのニューヨークタイムズに載せて、大きな反響を呼びます。最初からではありません。非常に苦しみながら決意をして、やっとケロイドを写真に撮らせるんです。
 今、日本被団協の代表委員をやっております山口仙二さん。体は悪いですが懸命に叫び続けている方です。第1回の原水爆禁止世界大会があった年、彼は長野県に呼ばれて、被爆の体験を語ります。最近出た本に、次のように書いてあります。「長野図書館の講堂はあふれんばかりの人。ラジオで中継もされていました。会場もシーンと静まりかえっています。私の話に真剣に耳を傾けてくれ、ときにはすすり泣きも聞こえていました。話す側と聞く側が一体となった感じです。私は積もり積もってきたものをようやく多くの人に聞いてもらったと感激し、泣きながら上着を脱いで上半身裸になってケロイドをさらけ出したのです。それまで、原水禁運動に無縁だった私が、初めて大衆の前で被爆の実相を訴えた。私の運動の出発点がそこにあります」。「長野県原爆被害者の会会長の前座良明さんは言います。『山口仙二が長野に火を付けた。長野が仙二を動かしてしまった』」。名文句だと思います。
 原爆1号の吉川さん、山口仙二だけじゃありません。多くの被爆者が、そういう決意を…隠して隠して隠したかったケロイドや心のケロイドをある日突然、そうではいけないと言ってさらけ出すようになった、運動の長い歴史があります。
 考えてみたら原爆ドームがこれに似ております。皆さんご承知の方もあると思いますが、原爆ドームは広島市民にとっては、「あんな醜いものは早く取りはらってしまえ」、そういう意見がずいぶんあったものです。確かに廃墟と化してだんだん朽ちて崩れていくわけで、決して周りにあるスマートな現代建築と比べれば格好の良いものではありません。でも、一方では、「これを崩してなくしてしまったら、広島・長崎は世界から忘れられてしまう」という感も持っていました。大変な論争が続きます。高校の教師であった私の友人は…顔面半分がひどいケロイドの教師でしたが、彼はドームに次のような詩を寄せています。
ドーム/それは私のケロイド/逃れられない桎梏/壊したいけど/壊されない/世界が崩れるから
 壊したいけど壊されない…世界が崩れるから。そう言っています。
 保存運動が始まり、急性白血病で死んでいった少女の日記がそれに大きな火を付けます。
 将来、原爆を記憶している者がいなくなった後のことを考えて、「あの産業奨励館(いわゆるドームです)だけがいつまでも恐るべき原爆を世にうったえてくれるだろうか」と問いかけています。
 亡くなった少女のこの問いかけを、当時の浜井信三市長が読んで、それまで消極的であった市長さんが自ら街頭にうって出て、原爆ドーム保存運動のきっかけを作っていきます。ドームはその後2度の改修工事をおこない、1996年には世界文化遺産として登録されます。まさに原爆ドームは被爆者の姿でもあったわけです。
 広島にやってきたジャン・ポール・サルトルが、「残骸は醜いけれども醜いものを象徴してそこに立っているからこそ残すべきである」と言明しております。大江健三郎さんは、「あの日を追体験できるのは広島という場所である。川があり、建物があり、原爆ドームがある。20世紀の核兵器の悲惨を考えるもとになる。悲惨の傷跡、悪い条件の中から、人間は生きていく希望、新しい文化を育てていく」と感想を語ってくれております。
 「皆さん、私の体を見て下さい。原爆さえなかったら、こんな苦しみを味わうことはなかったのです。そのことを国に認めてほしいのです」
 皆さんよくご存知の松谷英子さんが、原水爆禁止大会で、自ら壇上に上がってこの短い言葉で、自分の姿を「よく見て下さい、このことを国に認めてほしいんです」と叫びます。自分の傷を隠すどころか、さらけ出して、彼女は全国の多くの人達に訴えます。
 山口仙二さんは自らの顔面ケロイドになった写真を持ち国連の壇上に上がって、かざしながら、山口さん自身が上がっているわけですから当然自分の実物の顔と写真を2重に見せながら、次のように叫びます。松谷さんと全く同じ言い方をしています。
 「私の顔や手をよく見て下さい。世界の人々と、そしてこれから生まれてくる世代の子どもたちに、私たち被爆者のような核戦争による死と苦しみを、たとえ一人たりとも許してはなりません。私たち被爆者は訴えます。命ある限り。ノーモアヒロシマ ノーモアナガサキ ノーモアウォー ノーモアヒバクシャ」
 1人や2人の被爆者じゃありません。隠して隠して、破戒の禁を守ろうとした被爆者が、いつのまにかせっぱ詰まって、自分の傷をさらけ出して「平和を、核兵器のない世界を」と訴え続けています。被爆者が長い間皆さんに励まされてきて、運動の中で感じ取り、自ら切り開いたひとつの態度、生き方であろうと私は思います。
 2003年を迎えました今年(2003年)、被爆者の平均年齢は70歳を超えました。しかし、核兵器の恐ろしさを訴え、核政策の責任を追及するたたかいを終えることができません。残念ながら終えることができません。相変わらず波高しです。日本政府は、被爆者の原爆症認定を厳しくするばかりで、原爆被害を小さく小さく見せようという政策をとりつづけております。
 私ども日本被団協に結集する被爆者は、昨年(2002年)から一斉に原爆症認定申請をおこない、却下されれば集団訴訟も辞さないたたかいを始めました。ほとんどがガンの患者の方です。訴訟に加わることを決意した杉並の梅園さんは、昨年(2002年)9月に行われた東友会の合宿で次のように語ってくれました。
 「政府は、厚生労働省は、被爆者の死んでいくのを待っているんですか。死に絶えるのを待っているんですか。私はまな板の上のコイになります。そして政府は被爆者の死にざまを見てほしい」そう決意を語って訴訟に立ち上がっています。
 梅園さんだけではありません。原爆の傷をさらしてでも、平和を訴え、国に対して自分たちの苦しみを訴え、平和な世界を目指して、最後まで残された命をたたかい続ける。そういう決意を、被爆者を代表して申し上げ、今後皆さんの一層の励ましをお願いして、つたない挨拶ですが、終わりにいたします。どうも失礼致しました。