被爆者相談所および法人事務所
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東友会 原爆犠牲者慰霊祭と追悼のつどい

小中高生が「体験受け継ぐ」誓い 東京地婦連が千羽鶴

 東友会が主催する東京都原爆犠牲者慰霊祭と「追悼のつどい」が2002年7月28日に品川・東海寺の原爆犠牲者慰霊碑の前で挙行され、遺族、被爆者、都民など250人が参列しました。
 東友会常任理事が打つ梵鐘の音「打鐘五声」で開式した慰霊祭の最初は法式。東海寺の橋浦宗徹住職と品川仏教会の僧侶による読経と死没者の氏名が読み上げられるなか、参列者は次つぎに焼香。
 藤平とうへいのり副会長が原爆後障害で亡くなられた被爆者の姿を紹介し、「戦争も核兵器もない21世紀を実現できるよう、残された最後の力を振り絞って努力することを誓う」と「慰霊のことば」を捧げました。
 つづいて開かれた「追悼のつどい」は、田川時彦会長の開会のあいさつのあと、都知事、広島・長崎両市長のメッセージが紹介されました。
 都民代表としてあいさつに立った東友会顧問医の園田久子さんは、医師として見つめ続けたガン死した被爆者と家族の姿を紹介。会場のあちこちで感動して涙する参加者の姿が目立ちました。
 各政党代表のあいさつの後は遺族代表のあいさつ。世田谷区の市原さんが、4月に亡くなった末弟など50歳代でガン死した3人の弟・妹を見送った姉の思いを語りました。
 今回の「追悼のつどい」は、被爆者から学んだ子どもたちの思いと女性の平和への願いを紹介する場として企画されました。東都生協の平和活動のなかで被爆者の証言を聞いた子どもなど3人の小中高校生が平和への思いを発言。大きな拍手につつまれました。東京地婦連の代表は2002年4月に第五福竜丸展示館前で開かれた「お花見平和のつどい」から集めてきた千羽鶴を捧げ、感動と連帯の輪を広げました。

2002年度追悼のつどいでのあいさつから(要旨)

患者の思い背に
医師 園田久子

 原爆犠牲者追悼のつどいに都民のひとりとして参加し、犠牲となられた方がたへの哀悼を表します。
 私は1973(昭和48)年に渋谷区の代々木病院に就職し、被爆医療に加わりました。約20年前のことです。
 この間に亡くなられた一人ひとりに思い出があります。昨年(2001年)亡くなられたSさんのことをお話しし、追悼の意を表したいと思います。
 Sさんは、妻と母との3人家族で、2人の妹とも仲が良く、兄弟で母親をよく世話していました。5人とも広島で被爆、Sさんと妻、上の妹は結核の後遺症がありました。
 Sさんが胃の調子が悪いと訴えるようになったのは定年退職して間もなくでした。
 食道と胃の境界部に腫瘍があり、難しいしめずらしい場所だというので癌研を紹介し、Sさんは化学療法そして手術を受けました。
 この手術は成功し、癌研と私のところに定期的にかかっていました。
 けれど、1年経たないうちに再発してしまい、「しばらく来れないかもしれない」と癌研に再入院されました。
 数回の入退院ののち、免疫力の低下から結核が再発、自宅近くの病院に転院し、療養の後亡くなりました。
 その1カ月後、あとを追うように妻が亡くなり、残された母親も昨年(2001年)の冬、心不全で亡くなりました。
 Sさんが癌研に入院する時の「僕はたたかってきます」という言葉がとても印象に残っています。
 癌研の担当医からすべての事を聞き、信頼してつらい治療にも果敢に立ち向かったSさんの姿を脳裏に浮かべるとき、私には彼の「原爆に負けてたまるか」という声が聞こえてくるような気がします。
 それを支えた妻や母親もきっと同じ気持ちだったことでしょう。
 医学が進歩していますが、一瞬のうちに地球を、人類を破滅させる核兵器のおそれが現実のものとなりつつあります。とても医学で助かるものではありません。
 私は今までかかわったすべての患者さんの思いを背負って、核廃絶のために力をつくしたいと思います。
 どうぞ安らかにお眠り下さい。

被爆体験うけ継ぐ子どもたち (発言要旨)

原爆は地獄と同じ
小5 小野寺さん

 被爆されたかたのお話を聞いたり、写真展を見に行ったり、本を読んだりして、原爆のことが、少しずつわかってきました。
 私には、原爆が、地獄と同じように思えます。57年前の日本で、たくさんの人が苦しんだのだと思うと、こわくなってきます。また、世界中でいろいろな人が、戦争、核実験、原子力発電所の事故などに巻き込まれて、ヒバクしていることを知り、子どもたちも多くいて、今もこんな悲しい思いをしていると思うと悲しくなりました。
 お母さんから、「アメリカで原爆展をやろうと計画していたけれど、写真があまりにもむごいと中止になった」と聞きました。私は、どんなにむごくても、やっぱり戦争のきびしさを教えるべきだと思います。戦争、原爆は、ぜったいやってはいけない、とわかるからです。
 原爆で亡くなった方がたも、きっと戦争や原爆、核をなくしてほしいと思っていると思います。私に何ができるのかわからないけれど、それらをなくすためにがんばりたいです。

目をそむけず
中2 津田くん

 小学生の頃、広島に原爆のことを学びに行ったことがあります。平和記念資料館に行ったり、被爆者のかたにお話を伺ったりしました。資料館は衝撃的なものばかりでした。原爆の恐ろしさをきちんと知っておこうと思い、目をそむけずに見ました。被爆者のおばあさんは、あの日、街は、家族はどうなったのか、そして原爆の恐ろしさを話してくれました。話だけでは苦しみや悲しみの事実は伝わりきれないとも言っていました。
 原爆は絶対あってはなりません。なぜなら、たくさんの人が死に、たくさんの人が悲しむからです。被爆の恐ろしさを知った子どもが大人になり、世界がその人達に動かされていくようになるなら、世界は平和になるのではないでしょうか。
 正しいことを知ることが、少しでも平和への道につながるのではないでしょうか。僕はそう信じています。

バトン走者は私
高3 斉藤さん

 原爆というものを知ったのは小学校 2年の夏、母に手を引かれて「夕涼み平和子ども会」に行った時でした。それから毎年、被爆者のかたの話を聞きに通いました。6年生の時、生協の企画旅行で広島にも行きました。
 中学校3年の夏、埼玉にある丸木美術館に行き、「原爆の図」を見た帰り道、ふと思いました。私が原爆のことをどんなに学んでも、決して本当に被爆体験を理解することはできない。でも、だからこそ被爆者のかたは私たちに伝えてくださるのだ、と。その翌年、親しくして下さった被爆者の長尾當代さんが亡くなりました。
 おごった言い方かもしれませんが、「長尾さんをはじめ、被爆者から聞いた話はバトンだ、次の走者は私だ」と使命感のようなものを感じました。
 それから、弁論大会に参加したり、前述の子ども会で話したりしてきました。そして今回、この場に友人を誘いました。
 私は平和について学び、伝えたい。受け渡されたバトンを持つ人を増やしていきたいと思います。