特集 写真で見る東友会の65年 結成から現在まで
被爆の原点を見すえてたたかい続ける人たち
2023年は東友会結成65周年でした。11月19日におこなわれた記念式典・祝賀会では、東友会の65年間を写真でたどる映像「写真で見る東友会65年」が映写され、好評を博しました。本号では、これを紙面向けに再現する特集を組みました。読者のみなさんにも、東京の被爆者運動の歩みを振り返っていただければ幸いです。
前史
1954年3月、太平洋のビキニ環礁でアメリカがおこなった水爆実験で、第五福竜丸など多数の船が「死の灰」を浴びました。この事件をきっかけに、原水爆禁止の署名運動が全国に広がり、1955年に第1回原水爆禁止世界大会が広島で開かれ、翌1956年長崎で開かれた第2回世界大会の中で全国の被爆者組織「日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)」が結成されました。
東友会の組織
日本被団協結成から2年後の1958年11月16日、東京都の被爆者組織として東友会が結成されました。東友会結成の基盤になったのは、都内各地で活動をはじめた被爆者地区の会です。以来65年、東友会は解散の危機などを乗り越え、活動してきました。
この年月のなかで、東京に住む被爆者も次々と亡くなっています。それでも東友会は、都内の平和と核兵器廃絶を願う諸団体・個人と協力し合いながら、いまも運動をすすめています。
東友会を支えてきた活動のひとつは、新聞「東友」です。結成2カ月後に第1号が発行されました。被爆者の運動、制度解説などが時宜に応じて掲載され、各地に住む被爆者をつなぐ役割を果たしています。「東友」の発送は被爆者を中心としたボランティアグループ「猫の手会」の人たちが毎月おこなっています。
追悼事業
東友会は、生き残った被爆者だけでなく原爆死没者への思いを大切にしてきました。そのあらわれが追悼事業です。1967年に原爆犠牲者慰霊碑を建立したのをはじめ、1970年には東友会として初めて、広島・長崎に「被爆25周年被爆地訪問慰霊墓参団」を派遣しました。
その後も、毎年8月に広島市と長崎市で開かれる平和式典に代表を送り、両市に植えた「東京の木」の前で献水式をおこなっています。
国の償いを求めて
東友会は結成当初から原爆被害に対する国の責任を追及してきましたが、これを初めて理論化したのは1966年に日本被団協が発表した「原爆被害の特質と『被爆者援護法』の要求」、通称「つるパンフ」です。
全国の被爆者は、国会への請願、首相への陳情、座り込み、全国行脚などを続けました。こうした活動のなかで1968年には「原爆特別措置法」が制定され、被爆者への手当支給が実現しました。
東友会は、首都の被爆者団体として、これらの運動の先頭に立ってたたかいました。しかし、国の施策はあくまで生存被爆者の救済という社会保障的な枠組みにとどまり、原爆死没者を含む原爆被害全体への国家補償を認めていません。
被爆者は何度も何度も大運動をおこなってきました。1973年11月に取り組まれた大行動では、初めて厚生省前で座り込みをおこないました。1987年の11月大行動では、全国の被爆者と支援者5000人が「折り鶴人間の輪」行動で厚生省をとり囲みました。
核兵器なくせ
被爆者を生み出した原爆=核兵器をなくすことは、「ふたたび被爆者をつくらせない」ために絶対譲れない被爆者の悲願です。
そのために被爆者はいろいろな活動をくり広げてきました。核兵器の恐ろしさ、非人道性を一人でも多くの人に伝えるため、死没者に代わって訴えるという思いを込めて、原爆で傷ついた体を引きずって証言活動に取り組んできました。この活動は被爆者にしかできません。被爆当時の記憶の乏しい幼年被爆や胎内被爆の人たちは、いまも学びながら証言活動に取り組んでいます。
被爆者は、核兵器廃絶を願う幅広い人たちと協力・共同しています。被爆55周年の2000年からは、国民平和大行進に正式参加しています。被爆60年の2005年からは生協や地婦連のみなさんといっしょに、ピースアクションとピースパレードもおこなっています。
国内のみならず、海外からの要請に応えて被爆者遊説の活動にも参加者を派遣してきました。NTP再検討会議などの大きな国際会議などにも要請団を派遣しています。
支えられて
被爆者は、自ら積極的に行動してがんばってきましたが、多くの支援者に支えられてきたのも事実です。東京原水協は、1965年から被爆者に年末見舞金を贈る活動を続けています。広島・長崎に原爆が投下された6日、9日にちなみ、毎月「6・9行動」をおこなって、その中で集められた募金などから、これまでに総額1000万円以上が被爆者に届けられています。
年末のお見舞い訪問では、東都生協から贈られた組合員手作りの「編み物」が被爆者に届けられ、身も心もあたたかくしてくれています。
相談事業
東友会の相談事業は、全国的に最高水準といわれています。東友会は結成の直後から、専門の事務局員を置き、日常的に被爆者からの相談を受け付けられるようにしてきました。1962年からは、東京都からの委託事業として相談所をかまえ、被爆者の立場にたって相談を受け付け、これはいまも続いています。
現在の東友会の相談員は、41年のベテランからケアマネージャーの資格を持つ人など5人がおり、月曜日から土曜日まで相談所を開いています。年間の相談件数は、1万3000件にも上ります。
相談員は、日曜・休日でも、各地の相談会などに出かけ、顔を合わせ、膝を突き合わせて被爆者からの相談にのっています。
相談は、電話、手紙、ファックス、電子メール、そして来所など多様な手段で寄せられます。東京はもちろん、他の道府県、遠く海外からも相談が寄せられることがあります。
原爆症認定訴訟
全国の被爆者は2003年から2009年まで「原爆症認定集団訴訟」に取り組みました。加えて東友会は、2018年まで第2の集団訴訟ともいうべき「ノーモア・ヒバクシャ訴訟」にも取り組みました。現行制度にある原爆症認定に関し、国・厚労省が極めて厳しい基準で判定している現状、すなわち原爆被害を狭く、小さく、軽く扱う国の姿勢に対して、被爆者が立ち上がったものです。
全国で提訴されたうち9割近くの原告が勝利したこの裁判は、東京でも最初の訴訟で原告82人のうち76人が、ノーモア・ヒバクシャ訴訟は原告32人全員が勝利しました。
この裁判は、がんなどの重い病気を抱えた被爆者が原告にならざるをえなかったこともあり、勝利判決を聞かずに亡くなった原告もたくさんいました。裁判は勝利しましたが、この司法判断に即した制度改正に、国・厚労省はいまも背を向けています。
未来につなげる被爆者の願い われら生命もて ここに証す 原爆許すまじ
2013年、東京都に登録されている被爆者と被爆二世(被爆者の子)の人数が逆転しました。2023年時点で、東京都の被爆者は3838人、被爆二世は8664人です。東友会は結成65周年にあたり、二世や支援者に支えられながらも、運動は最後まで続ける決意を固めています。
「折り鶴バッジ」と東友会の財政
東友会の財政を支えてきた「折り鶴バッジ」は、東友会結成の3カ月後、1958年1月から販売が始まりました。東友会結成50年誌『座談会でつづる 東友会の50年』の発言から要約を掲載します。
座談会での発言者
- 安藤賢治
- 18歳のとき広島で被爆。結成当時から活動した副会長。2014年87歳で死去。
- 飯田マリ子
- 13歳のとき長崎で被爆。事務局長、会長などを歴任。
- 藤平典
- 16歳のとき広島で被爆。事務局長、会長などを歴任。2011年82歳で死去。
- 山本英典
- 12歳のとき長崎で被爆。事務局長、副会長などを歴任。2021年88歳で死去。
- 吉田一人
- 13歳のとき長崎で被爆。東友会結成の呼びかけ人の一人。
- 安藤
- バッジは当時20円で売りました。原価は1個6円以下でした。毎年2万から3万個は売れていました。当時の会の収入の6割がこの事業活動の利益でした。
- 飯田
- 当時の東友会の年会費が1人10円でしたから。
- 安藤
- バッジをデザインしたのは、東工大附属高校の先生だった小島利一さんでした。自分で金属を削って型をつくりました。ぼくは所属していた自治体の労組の関係を、被爆証言をする人と組んで回りました。
- 飯田
- 1950年代の終わりから1960年代の役員は、みな売り子でしたね。
- 藤平
- 区から助成金が出る前はカンパとバッジの売り上げが会の収入です。1965年から1975年ぐらいピークでしょうか。中野でも1人で200個売った人がいました。
- 山本
- 1961年の第4回総会で東友会は年会費を100円にします。しかし、東友会は財政危機に陥りましたね。
- 安藤
- 役員になっても交通費も弁当代も出ない。
- 飯田
- 地区の会も貧乏だから費用は個人が出します。高度成長期の前で、この頃はまだ生活が苦しかった。そのなかで手弁当での活動は大変だったと思います。
- 安藤
- 現役で働いていたので、休暇をとって都内の自治体の労組を3日かけて回ったこともありました。
- 吉田
- 役員になって困ったのは、交通費が出せないことです。自費で行き、そこで集まったカンパは会によこせ、というのが当たり前だった。