被爆者相談所および法人事務所
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被爆者の思い NPT再検討会議に向けた「核兵器ゼロはがき」から

「原爆の恐ろしさを身をもって知っている私たちががんばらなければ…」

 2010年2月号の「東友」で、NPT(核兵器不拡散条約)再検討会議にむけて東友会などがよびかけた「核兵器ゼロ」はがきは、東友会に届いた分が229枚、東京地婦連、東京都生協連、都地消連が集めた分とあわせると533枚にもなりました。
 このはがきに託された被爆者と都民の核兵器廃絶への願いを紹介します。(抜粋・順不同)

  •  私は65年過ぎた今も「さようなら」を言ってない友だちや近所の大切な大人がいます。そして地下鉄にも乗れない、写真のフラッシュが恐い。被爆の話もやっと他人に話せる様になりましたが、心の傷を消す事はできません。理屈は何とでも言えます、どうぞ一日も早く核兵器を無くしてください。オバマ米大統領、あなたが最初の国になってください。 (港区・女性)
  •  防空壕に入っていた小学生だった私たちの入り口に焼夷弾が炸裂したかと思ったらピカドンでした。恐るおそる出て見たら大きな爆弾雲(キノコ雲)でした。その後の混乱はご存知のとおりです。核兵器は金輪際いりません!(品川区・男性)
  •  私は6歳の時に長崎で被爆しました。あの地獄、もう他の人にあじあわせたく有りません。6歳で一生分の地獄を見ましたから今でも苦しんでいます。核兵器のない平和な国になりますようになにとぞよろしくお願いします。(北区・女性)
  •  私は被爆二世です。父は学徒動員で広島で0.7キロの所で被爆し、その後ガンになり入退院を繰り返し60代で亡くなりました。
     被爆後、東へ東へと逃げたのですが、父の弟は父を捜しに広島へ行き3日間ほど歩き回り、そのためか40代半ばでガンで亡くなりました。父は貧血があり、私も娘二人も貧血の症状があります。従姉妹も肌が敏感なタイプです。後々までの影響が重い核兵器、ゼロになってほしいと切に願います。(世田谷区・女性)
  •  これまで被爆者の皆さんが辛い体験を勇気を出して世界中の人びとへ伝えてこられたことに敬意を表します。自分の思いを語らず亡くなった父、65年経っても癒えることない心の傷を抱えたままひっそりと生きている兄たちの気持ちを世界中の人びとにもっともっと伝えなければと私もニューヨークへ行きます。
     人類にとって、核兵器は「負」の財産です。一日も早くこの地球から無くなることを強く願っています(被爆二世)。(練馬区・女性)
  •  「核兵器廃絶」――被爆者は自分たちのために訴え続けたのではありません。再びあの惨劇を味わってほしくないからです。生きとし生ける世界中の同胞に。(府中市・女性)
  •  小生は60数年前の8月6日のあの日日本陸軍の憲兵の一員として、広島憲兵隊に所属し8月5日から6日の朝にかけて広島駅に勤務していました。8月6日の朝、当日勤務の隊員と交替する直前でした。幸いに九死に一生で死を免れた訳です。
     核兵器の恐ろしさ、被害の悲惨さは筆舌に尽くせません。一日も早く地球から核兵器を無くす事が必要です。
    「無くせ核兵器、直ちに」これが心からの悲願です。(奈良県・男性)
  •  私たち家族5人は昭和19年父の勤めの関係で広島市白島北町に転居しました。昭和20年、兄は広島二中に合格し大変喜んでいました。8月6日学徒動員で相生橋近くで被爆、遺体も無く逝きました。13歳でした。私は9歳、弟は3歳でした。両親とも被爆、私どもも被爆、下痢で死亡まちがいなしといわれ、両親の里・淡路島に預けられ一命をとりとめた。父は膀胱ガン、母は心不全で死亡、私も原因不明の全身痛になる線維筋痛症で14年余り苦しんでいます。
     これから先もし核兵器を無くさなければ人類は亡ぶと思います。また今生き残っている人も安らかに死を迎えられるようにしてほしいです。(東大和市・女性)
  •  原爆が投下されて65年、瞬時に亡くなられた方、その後苦しみながら亡くなっていった方がたの無念の思いを、私たちはどれほど多く見続けてきたことか。
     親兄弟を始め、近所の人びと、同級生、職場の同僚、被爆者の先達、また昨日までともに核兵器廃絶を命をかけて叫び訴え続けてきた友人を。今生き残った私たちにできることは、今度こそNPT再検討会議において「核兵器のない世界」を結実するために、持てる力を結集して、署名、証言、写真展、朗読、映像等々、あらゆる機会に参加協力することだと思います。被爆者に次回はありません。
     ニユーヨークへ参加される皆さま、私たちのこの思いをどうぞ世界中の人びとに届けてください。核兵器のない世界の実現が一日も早からんことを祈ります。(国分寺市・女性)
  •  被爆から65年を迎えます。私は女学校の2~3年生のとき、学徒動員先で「広島駅」で原爆に遭いました。二度とあの様な思いはしたくありません。どうしても核兵器だけは無くさなければなりません。そのためには、その恐ろしさを身をもって知っている私たちから頑張らなければなりません。
     兄の長男が学校を終えて市役所に勤め始めまして直ぐに亡くなりました。父は朝から夕方まで探しましたが見つかりませんでした。いつも8月6日にはお祈りをしてもらっています。私達も頑張ります。(広島市・女性)
  •  65年前、私が16歳の夏、長崎市で直爆を受けました。学徒動員で三菱兵器工場の地下トンネルでした。百雷のような光に地下の岩盤が輝きました。30分後伝令に従い師範学校へ到着しました。2晩3日の間、死んだ学友を荼毘に付し、重傷者は、担架で駅へ運びました。美しかった長崎の町は、見渡す限り真っ黒な原子野でした。学校全体で54名の若人が死亡しました。私はその後、鼻血、歯茎からの出血が続き、脱髪(毛)や脱力に悩まされました。核に優る犯罪は地球上にありません。(足立区・男性)
  •  18歳の少女は挺身隊に狩り出されて工場に居ました。「あ、何でしょう」と思う間もなく、工場は土煙となって半壊。頭から血を流しながら、工員の方がた、朝の8時15分、今日もお国の為に働こうとしていた当時の日本人が、一瞬にして被害にあったあの日の様子は、65年経った今もありありと頭に刻まれている。世界の人が平和であれと祈る。(練馬区・女性)
  •  残虐極まりない核兵器を一日も早く廃棄させることはもちろん、私は全ての兵器をこの地球上から無くしてこそ真の崩れぬ平和がやってくると思います。憲法第9条を世界のすみずみまで拡げたいのです。世界ではすでに20カ国を超える国が兵器を捨てているのです。夢ではないのです。(町田市・男性)
  •  オバマ米大統領の「核廃絶演説」で世界の流れは「核のない世界」へと向かい始めました。だがアメリカはまだ「核抑止論」を捨てず、日本はアメリカの「核の傘」にしがみついたまま。ヒロシマ・ナガサキをしっかり見つめ、被爆者の声を聞いて、核兵器は絶対に使ってはならない「悪魔の兵器」であることを認めること。「核抑止論」も「核の傘」もそれで雲散霧消です。ヒロシマ・ナガサキを見つめない者に「核」を語る資格はありません。「核の傘」におおわれない日本の青空が見たい。(杉並区・男性)
  •  原爆被害者への国家補償を運動して参りたいと思っています。核兵器をゼロにしなければなりません。頑張りましょう。(足立区・男性)
  •  私たちの世代に作り、使用された核兵器は、私たちの世代に無くす、私たちには道義的責任があります。団結し、英知と行動で責任を果たしましょう。(北区・女性)
はがき16枚を縦4枚・横4枚つなげて、展示やアピールに使用できるようにしたもの。
寄せられたはがきの一部
はがきの一例、濃く暗い緑色の背景に巨大なキノコ雲が描かれている。地面には真っ黒な遺体。「ヒロシマ・ナガサキに悪魔の核兵器を使ったアメリカは、核兵器を二度と使うな。核兵器を造るな。核兵器を捨てろ。被爆者に謝罪しろ。アメリカは核兵器のない世界を実現させろ」と書かれている。
はがきの一枚
はがきの一例、長崎の街をつつむ炎に照らされ赤く染まった山並み、手前には教会らしき建物が描かれ「オランダ坂」の文字。「わたしの長崎は紅えてなくなた 核反対(原文ママ)」と書かれている。「紅えて」は「燃えて」の意と思われる。
はがきの一枚