被爆60年 高齢化しても被爆の生き証人として
被爆者の家族・ヘルパーからの相談が増える
公費助成制度活かした介護を
被爆60周年。その分、被爆者は年をとりました。いま、東友会相談所には、介護を必要とする高齢被爆者の家族やヘルパーさんからの相談、介護保険のサービスを利用している家族などからの手当申請の相談が相次いでいます。「要介護4だけど、介護手当はどうしたらいいの」「介護保険との組み合わせをじょうずにするには」。東友会相談員は、電話を切る間もないほど、対応に追われています。
毎月5日ごろの東京都の締め切り日に間に合わせるため、東友会に寄せられる他人介護手当の申請書類は、11月が75人から82件、12月が70人から76件もありました。いずれも手のかかるものばかり。しかし、手続きをして手当が25日までに振り込まれると、明るいお礼の電話が寄せられます。「毎日ヘルパーさんがきてくれるようになって、助かった」「介護手当が、重度にしてもらえたので3万円増額になった」「介護保険との組み合わせがよくなってうれしい」。
被爆者からの相談は、5年前と明らかに様変わりしています。
相談員たちは言います。「被爆者は、かけがえのない核戦争の生き残り。肥田舜太郎先生は被爆者は人間国宝だともおっしゃっている。被爆の生き証人として、命輝かせて、一日でも長生きしていただかなくては」。
病床から「非核」の訴え 「年末見舞金」届けるなかで
2004年末も都内47区市479人の被爆者に東京原水協の「年末見舞金」が届けられました。訪問した人びとは高齢被爆者の実情をつぎのように記録しています。
会の実態調査をもとに、はじめての人を訪問した中野・長広会の人は、「長広会だというと驚いていたが、帰る頃には涙を流しながら感謝された」(76歳と78歳の夫妻)。「迷惑そうだったが、広島の被爆者同士だとわかると、被爆当時の軍刀や長靴を見せて、体験記を貸してくれた」(82歳・男)。
杉並・光友会の記録からは、「夫が面倒を見られなくなり病院に入れている。2005年は会話ができなくなった。被爆の話は夫にもしていない。聞いておけばよかった」(67歳・女)。
「2003年まではわかってくださったが、2004年は私の顔をじっと見つめたきりでした。訪問した日の夜、緊急入院をして3日後に亡くなられました。お別れの訪問になりました」(79歳・男)。豊島・豊友会の記録です。
「玄関に這って出てこられた。3カ月前に転んだことが原因。被爆で家族は全滅と。思い出して涙を流していた」(64歳・女・文京区)
「寝たきり。じっと顔を見て、だんだんわかってきたのか、帰る頃には涙ぐんで手を出して、いつまでも別れをおしんでくださった」(80歳・男・大田区)
「病気がいっこうによくならない。なぜ普通の人間に戻ることができないのでしょうか。同じ過ちが繰り返されないことを祈っています」(75歳・女・立川市)
「胃ガンと食道ガンで入院。最近、食道からの出血があり、極めて憂慮すべき状況。しかしピース・リーフと署名に協力してくれた。ピース・リーフを見てください」(77歳・男・日野市)
「甲状腺腫は落ち着いているが身体の衰えがみられる。原告にはなれなかったが、集団訴訟にぜひ勝ちたいと」(83歳・男・国分寺)