被爆者の思いを引き継ぐ
戦後世代の対談 被爆二世と相談員
被爆二世の青野美由紀さんと、被爆者運動を裏方で支えている東友会相談員の村田未知子さんの対談です。親の世代の被爆者運動をどう見ているのか、これから被爆者の願いをどう引き継いでゆくのか、二世の運動は…など、戦後世代同士でざっくばらんに語りあいました。
(文責:東友編集部)
村田
被爆二世でない私は、二世の青野さんに聞いてみたいことがあるんです。あなたの場合お父さんですが、被爆者の親の元で「被爆」ということを意識したのはいつですか?
青野
小学校1.2年のころ、よく鼻血を出し、出血量も多くなかなか止まらず、母に連れられあちこちの病院に通った時期があります。2年ほどで回復したのですけど、中学生のころ、当時のことで母がふと「やっぱりお父さんがそうだから心配したのよ」とつぶやいたのを聞いて、「遺伝するのかな。被爆って普通とはちがうものなんだ」という意識を持ったと思います。あとは全く健康で、中学、高校と「被爆」を深く考えることもなく、普通に青春してました(笑)。
村田
そんな青野さんが、被爆二世だと名乗り出て、被爆者の運動に協力するようになったきっかけは?
青野
おおげさなことはないんですよ。結婚して、子どもに手がかかるころは、何もできませんでしたし。
でも、イラク戦争などの経過を見てると、いたたまれなくなって、自分にとって一番近しい被爆者の運動に参加したのです。
村田
やっぱり、お父さんに被爆の話や被爆者運動のことは聞きにくいですか?
青野
そうでもないのですが、こっちから聞かないと自分からは話さない。だから父の被爆体験も、きちんと聞いたことはなかったんです。それでこの間はじめて「教えて」といったら、面と向かっては言いにくかったんでしょうか。書いたものをファックスで送ってきました(笑)。
いま被爆者をみて
村田
私、東友会に来て21年になりますが、いま正直いって「みなさんお歳とったなあ」と思っています。
自分の記憶として「あの日」を語れる被爆者は、おおむね70歳以上でしょうか。あと何年語り継げるか。
もちろん、原爆投下直後の広島・長崎のことだけでなく、戦後59年の全部が被爆体験だと思うので、被爆者としての生き様をどんどん語ってほしい。そうでないと、核兵器被害の真実が引き継がれていかない。戦後世代にとって、被爆者はみんな「人間国宝」なんだと思います(笑)。
青野
同感です。「存在しているから、実感としてわかる」という面がある。もし被爆者がいなくなったら、体験のない世代は何をよりどころに原爆被害を理解したらいいのか。いましっかり聞き、語り合っておかないと、と思います。
二世として思うこと
村田
私の父も戦争体験はありますが、それが子どもの健康に影響するとは思っていません。でも被爆者はそうじゃない。そこが決定的に違うと思います。
青野
私、子どものころ何度も血液検査をした記録が、二世制度の書類に残っているんです。でも10年前までそれを知りませんでした。私が30歳を過ぎたとき、父が黄ばんだ書類をそっと出してきて「この制度が利用できるから」って一言…。
村田
かなり初期の書類のようですね。それを見たとき、どう思いました?
青野
親は被爆者、自分は二世と承知していましたが、あらためて「被爆二世」の文字を見たときはちょっとショックでした。ダメ押しされたみたいで(苦笑)。
村田
東京都の二世制度も、子どもを心配する被爆者が運動した結果、昭和50年にできました。
でもこんな例もある。二世制度の利用を勧めた親に息子が「おれ、制度に頼らずがんばってみたい」と言ったというのです。そのときの親の気持ち、息子の気持ち…。
青野
その気持ち、すごくわかる。
父が書類を出してきたとき、私の目を真っ直ぐ見ないんですよ。そこに、被爆者としての父の苦しみがあるんだなあ、と…。私自身、二世として意識して牛きることが、いいのかわるいのか、よくわかりません。
村田
心配なのは、情報から切り離され、個々の二世が孤立することですね。
青野
二世が健康を害して助けが必要になったとき、制度があることすら知らないと困ることがありますからね。原爆のことを隠していたのでは核兵器の怖さが伝わらないし、制度の維持や充実もどうなるか…。
二世の問題って考えれば考えるほど悩みます。
二世の交流みんなで
村田
4月に二世交流会を計画してるって聞いたけど、どういうきっかけで企画したのですか?
青野
二世全体的に年齢が上がってきて、それなりに冷静に考えられる歳になり、身体の不安が出てくる歳になってきた。
私個人としては、被爆者が死んだあと、いまある制度をちやんと保っていけるか不安があります。そうなったとき、被爆者が助け合って生きてきたように、カを合わせて制度を勝ちとってきたように、二世も助け合えればと思うのです。
また、もし親が倒れて口もきけない状態になったら、子は制度をどう使っていいかわからない。だから二世自身が被爆者の現行制度を学ぶことも大事かなと。そのため、まず交流してみようということですね。
村田
被爆体験の継承などでは、何か考えていますか?
青野
私、もし自分が被爆者だったら子どもを産んだだろうかって考えるんです。もちろん、産まなかった、産めなかった被爆者もたくさんいらっしゃるので一概にはいえませんが、ああいう歴史のなかで子どもを産むのは、ものすごく勇気がいったと思うんです。
子どもを育てながら、みんなで助け合って、一番言いたくないことをさらけだして「核兵器なくせ」と訴えてきた足跡を、一番身近な子として知っておきたいと、私は思います。
そういったことも、二世のなかで、あせらず少しずつ交流していければいいな、と思います。
村田
1999年12月、東京都が二世施策の予算を削るという案を出したとき、高齢化した被爆者が寒風のなか都庁で座り込みしたんですよ。そうした運動によって築かれた制度を、今度は二世自らが守り発展させる時期かもしれませんね。
青野
そう。いま二世がもっと被爆者の運動に接することが人事だと思います。子どもには面と向かって言えないかもしれないけど、親たちがどんな活動をしているのか、その姿を実際に見ることが大切じゃないか。見たうえで、二世として活動するかしないかは本人しだいですけど。
村田
二世に限らず、ずっと被爆者を支援している戦後世代の方は各地にいらっしゃいます。日本被団協が「聞きとり・語りつたえ」運動をよびかけていますが、戦後世代の人たちと被爆者が接する機会をどんどんつくりたいですね。
2004年私の抱負
村田
原爆症認定集団訴訟が全国でたたかわれています。被爆者が語れるうちに、法廷で、支援運動の場で、原爆被害を明らかにして、この記憶を日本人共通のものにしてゆく意気込みでがんばりたいと思います。
青野
被爆者の願いは「ふたたび同じような被害者をつくるな」だと思います。これは劣化ウラン被害で苦しむイラクの子どもたちにも通じる全人類の間題です。私もできるだけ支援したい。
親たちの身体が弱ってくる切迫した気持ちもあるので、被爆者の思いを、上手に工夫をして二世に引き継いでゆければと思います。
村田・青野
がんばりましょう。