被爆者相談所および法人事務所
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『東友』400号直前企画 運動、情報、思いをつないで59年

 東友会の発行する新聞、月刊『東友』は、2018年2月に400号を数えます。1959年1月25日に創刊した新聞『東友』は、発行間隔が決まっていなかった最初期を含めて単純に計算すると、59年間2カ月に1回発行し続けてきたことになります。小さな団体の快挙です。本号(399号)では、400号直前企画として、『東友』の歴史を振り返るとともに、少しだけ「内幕」をご紹介します。

読まれる新聞

 通常号(薄緑の紙)でもそうですが、『東友』1月号と6月号(クリーム色の紙)は東友会が連絡できる被爆者と被爆二世全員に送るため、発送後には相談や会費納入の問い合わせが急増します。たとえば、2017年6月号の「相談のひろば」で原爆症認定制度の説明をしたところ、7月から9月に20人が申請書を提出しました。この原爆症の認定審査の状況は、連載している「ケースbyケース」で紹介しています。
 最近は「八十路を越えても」が好評。450字程度の短い記事ながら「紹介された人のことがよくわかる」「元気づけられる」と反応は上々です。

 それでは、『東友』をどんなふうに編集、作成しているかをお知らせしましょう。

喜寿、傘寿の委員たち

 新聞社などの編集委員会にあたるのが広報委員会で、『東友』の企画・編集を担当しています。現在、委員は12人。委員長は広中弘道さん。八王子・八六九会の会長です。副委員長の木村京子さんは府中きすげの会の会長です。委員は、東友会と地区の会の運動の中心を担う人ばかり。委員長・副委員長以外も、地区の会会長が5人、重複もふくめて東友会の執行理事と理事が7人です。
 毎月の広報委員会の司会は持ち回りの交代制。前月号の感想と反省、校正作業を終えたばかりの当月号から話しがはじまります。
 次号の企画では、記事の執筆と写真撮影の担当を決めます。記事担当は、委員の家島昌志(中野)、濱住治郎(稲城)、山本英典(杉並)の各氏と村田未知子、的早克真事務局員が中心です。『東友』専属カメラマン第1号の森貞士さん(江東)と第2号の綿平敬三さん(練馬)も出番。撮影が許されない裁判所のスケッチは、画家の石飛公也さん(国分寺)が腕をふるいます。
 広報委員会のもうひとつの大切な仕事、ウェブサイトのチェックは熊田育郎さん(立川)が中心。髙木恭之さん(港)と梅岡功さん(武蔵野)は、『東友』の発送を担当しているボランティアグールプ「猫の手会」の一員でもあり、企画から発送までオールラウンドで奮闘しています。

長方形に並べられた机に着席し、書類に目を通す委員たち
校正作業中の広報委員会
厚労大臣協議に参加し着席している被爆者らと、その後ろでコンパクトデジタルカメラを構えてやや前屈みに立つ森さん
厚労大臣協議を撮影する森カメラマン(右端奥)
厚労大臣協議で立って発言している大臣と左右に着席する厚労省側代表。手前に傍聴者の頭が大きく写り込んでしまっている。傾きはウェブ掲載にあたり補正済み
厚労大臣協議で森さんが撮影した写真
机の上に山積みになった封筒と、ひとつづつ封筒詰めしていく人たち
猫の手会の発送作業

大きな区切りに願う

 400号は輝かしい記念ですが、同時にいまは亡き先人たちの努力を思わずにはいられません。創刊当時のことを知る数少ない会員として、かつて『東友』の編集を担当していた吉田一人さん(杉並)と山本英典さんに、『東友』の歴史的な経緯を執筆していただきました。
 お二人はともにジャーナリストで、その専門性を活かして『東友』の編集・発行に貢献してこられました。
 被爆者が作る被爆者の新聞ですが、被爆者以外の若い人たちにも読んでもらい、被爆者の思い、願いを受け止めてほしいと強く思います。

『東友』創刊から88号まで
被爆者が作る被爆者の新聞を 年ごとに活発で多彩な紙面に

『東友』スタート

 東京都原水爆被害者団体協議会(東友会)は1958年11月16日に結成、2カ月後の59年1月には早くも機関紙『東友』がスタートしています。東友会が機関紙活動を重視していたことがうかがえます。『東友』のあゆみを追ってみましょう。
 第1号は59年1月25日。タイプ印刷4ページで東友会の結成を知らせます。第2号(5月)に続いて7月には臨時号「健診のしおり」を発行、被爆者健診の普及をよびかけています。
 B4判(半紙大)タイプ印刷、発行は年数回ですが、61年は8回、62年5回と活発。内容も会の連絡的なものから活動情報に次第に進化、原水禁世界大会や60年の安保改定問題などと意気盛んです。

「東友」2号
「東友」2号は1959年5月発行。判型はB5判でした。

新聞として進化

 『東友』がタイプ印刷から写真植字・オフセット印刷に発展し、写真なども入って新聞としての体裁を整えていくのは1967年4月の40号から。
 70年代に入ると、さらに紙面の活発さが増してきます。
 「なぜ被爆者とは認めぬ」(1971年11月)、「沖縄核基地へ怒りの全国行動」(1972年3月)、「被爆者援護法もう一歩」(1973年10月)、「被爆者の願いを国連軍縮特別総会へ」(1978年4月)、「原爆体験を語り継ぐ国民運動を」(1981年1月)。
 1977年7月(75号)では「厚生省『昭和50年原子爆弾被爆者実態調査』報告書を解明する」と題した伊東壯東友会副会長の詳細な分析を2ページにわたって掲載しています。

「東友」50号
1968年12月発行の「東友」50号。判型はタブロイド判で、題字が縦型なのが特徴です。

猫八さんらも登場

 『東友』には“有名人被爆者”も登場しています。
 ものまね芸人江戸家猫八さんは兵隊のとき広島で被爆。東友会の支援で被爆者手帳を取りました。猫八さんは1972年10月号に書いたエッセイで、「白血球の減少で疲れがひどくなった。NHKテレビの『お笑い三人組』で有名になったが、被爆の恐ろしさから逃れることはできなかった」と書いています。
 『はだしのゲン』の中澤啓治さんは1976年1月号の新年随想で「今年こそは援護法を実現させてほしい。今年こそは」と訴えました。
 講談師の神田照山さんは、国民学校6年生のときの長崎原爆による辛い体験を寄せてくれました(1979年11月)。
 『おこりじぞう』などの作家・山口勇子さんは1973年2月(第63号)に「ベトナム訪問記」を書いています。品川区の会の役員で東友会の広報担当として活躍、コラム「えんぴつ」なども快く引き受けてくれました。

飛び出した折り鶴

 おしまいに、大事な題字についての打ち明け話。
 題字『東友』は、オフセット印刷に移行したころから縦書きになりました。正直に言うと縦型の題字では紙面編集上ちょっと面倒なのです。
 それで、私が広報担当だった78年1月号から題字を横型にしようと考えました。
 ところが、厄介な問題が生じました。あしらわれた「折り鶴」の尾が「東」の字に重なっていて、題字の枠からはみ出してしまうのです。
 広報部会で頭を抱えていたとき、奇抜なアイデアが飛び出しました。
 「いっそ、折り鶴を枠から飛び出させては――」
 みんなヒザを打ちました。これが今の題字です。

題字と折り鶴にも歴史あり

 『東友』の題字の書と、あしらわれた「折り鶴」のデザインは、東友会の二代目事務局長だった故・小島利一さんの作。長く目黒区の萠友会会長としても活躍した方です。この「折り鶴」のデザインから“折り鶴バッジ”が作られました。東友会の財政を支え続け、今も被爆者の声を抱いて世界に羽ばたいています。

『東友』の題字

(吉田一人)

吉田一人さん

『東友』月刊化のころ
定期発行の体制と郵送がカギ 情報だけでなく人をつなぐ新聞に

 新聞『東友』は、創刊当時は発行間隔が定まっていませんでしたが、東友会と被爆者を結ぶパイプとして、被爆者や平和友好団体の皆さんから愛読されていました。

運動の高まりとともに

 被爆者運動が活発になり、「被爆50年には核兵器廃絶と国家補償の原爆被爆者援護法の制定を」という運動が高まるとともに、年2回刊では運動のテンポに合わないという声が強くなってきました。
 1993年11月は東友会結成35周年、95年8月は被爆50年、この年までに国家補償の被爆者援護法を、核兵器の廃絶をという被爆者の期待が高まりました。
 東友会は「運動推進ニュース」などのビラを随時発行して運動の発展に当たってきましたが、ビラでは配布範囲が狭く、すべての被爆者に運動参加を呼びかけるには力不足だという意見があり、月刊化の要望が強まってきました。
 しかし月刊にするにはスタッフがいるし郵送料もかかる、発送態勢はどうするのか、資金をどうするか、担当事務局員に過大な負担がかかり大変だと心配する声が強くありました。
 そんな中で93年3月の東友会常任理事会は『東友』の月刊化を決定。スタッフとして、東友会事務局次長の山本英典と、事務局員の村田未知子さんが指名されました。

「東友」の保存用ファイルの入った棚
東友会の活動の約60年分が掲載された過去の「東友」の保存用ファイル。大きな書棚のほぼ1段分を占有する分量です。

苦労した低料第3種取得

 最大の懸案は郵送料です。普通郵便なら1通60円(当時)なのが低料第3種郵便に認可されると15円ですむのです。さっそく東京郵政局に、第3種郵便の認可申請に出向きました。郵政局では月刊で認可をとるには3回の発行実績がいると言うことでした。
 そこで『東友』テスト版づくりです。たまたま新宿の山根ミサヲ会長(当時85歳)がフジテレビのマジック番組で優勝したというニュースが入り、明るい話題でいいなと思って紹介したら、郵政局から大目玉。「このような個人のニュースを報道するのでは認可できない」。個人ニュースは、特定商品の宣伝広告や政治宣伝に使われる恐れがあるため、福祉団体の第3種郵便物としてはダメだというのです。
 「きびしいんだな」と思いながら、以後注意して編集し、ようやく認可をいただき、今日に至っています。『東友』に個人のニュースがないのはこういう経過があったからです。いまの「八十路を越えても」の連載は、個人宣伝にあたらないようです。
 月刊に際して、印刷経費を減らすため、印刷業者に原稿だけ渡して組版してもらっていたのを、版下を自前で作るように切り替えたのも大変な努力でした。編集ソフトを使って、村田未知子事務局員が半徹夜で頑張っていた姿が忘れられません。いまは、鍋島聖民さんが編集作業を一手に引き受けてくれています。

「東友」300号
「東友」300号は2009年10月。活字を大きくしてリニューアル。

読者をつなぐ大切さ

 『東友』の多彩な紙面は、東友会の社会活動・地区活動・相談活動が活発な証です。
 しかしその活動をまとめて月刊で報道する労力は、広報委員の高齢化と病弱化で大変になってきました。
 けれども、『東友』があることで、各地区の、東京の、全国の被爆者と支援者を結ぶことができ、東友会の運動を未来につなげます。
 みなさんの後押しを切にお願いします。

(山本英典)

山本英典さん

事務局の視点から
読者からの励ましに支えられて

 「今月の集中作業日はいつ」。毎月、『東友』の編集・組版をパソコンで担当している鍋島聖民さんから声がかかります。
 原爆症認定集団訴訟がはじまった2003年、裁判を担当することになった私(村田)の仕事量を減らすため、エキスパートが東友会に登場。新聞編集の専門家・鍋島さんでした。原稿を渡すとサクッと紙面レイアウトができます。アイデアはあるものの具体的な構成ができず頭を抱えているときも、素材や資料を渡すと魔法の腕で紙面が完成。14年続く大切なパートナーです。
 私が『東友』の編集を担当したのは、東友会に勤務した日1982年7月から。初出勤の日が編集会議で、担当の山本英典さんから最初に言いつけられた仕事は、当時の伊東壯会長の原稿を3分の1に削ることでした。
 月刊になってからは、毎月第3土曜と日曜はほとんど『東友』編集のため事務局に詰めています。『東友』をパソコンでつくるようになった93年12月からは、つたない技術で新聞作成を続けました。徹夜の作業をしたことも多く、2日の半徹夜をねぎらって故・藤平とうへいのり会長が赤提灯でご馳走してくれ、一人になってから睡魔に負けて終着駅まで乗り越したことも…。
 支えられたのは、読者の声。『東友』を見たという相談、励まされたという声、「知り合いに送りたいから追加を」という嬉しい電話も。どうぞみなさん、『東友』の感想を聞かせてください。

(事務局 村田未知子)