被爆者相談所および法人事務所
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ピースアクションでの証言朗読劇「61年目、はじめての被爆証言」から

「戦争は絶対にしてはいけない」「原爆を二度と使わないで欲しい」 これが被爆者の願いです

 2006年6月12日に開かれた「ピースアクション in TOKYO」のメイン企画「61年目、はじめての被爆証言」は、「被爆者の本当の苦しみと願いがわかった」と感動をよびました。集団訴訟や集団申請に参加している被爆者5人の証言を構成したものを要約再現しました。
 なお、文中の田崎アイ子さんの「崎」は本当は異体字ですが、ご覧になる環境によって正しく表示されない場合があるため、表記を変更しています。

舞台上、マイクの前に立つ朗読者。上手側の2人。
証言者になりきって朗読する被爆者・支援者のみなさん
舞台上、マイクの前に立つ朗読者。下手側の2人。
スクリーンには写真や絵が映し出されました。(この写真では集団提訴の場面)

被爆から61年、今日まで被爆者は…

田崎アイ子 私たち姉妹は、東京に出て来てからも、広島出身だとは言うまい、わかってしまったら遠くにいたから関係ないと言おう。そう話し合っていました。
 戦後、まだ物のないときでした。家にあった粉を集めて柏餅を作ったら、近所の人が受け取ってくれないんです。後からわかったんですが、「原爆がうつる」と言われていたそうです。

池田智 女房と結婚する前の話です。「被爆者なんだって」と言われ、女房の家族や親戚からいっせいに反対されました。
 それから、被爆のことは隠しました。仕事でも何でも、被爆者だと知られて、いいことなんか一つもなかったですよ。

けっして忘れられない「あの日」の記憶

(司会)田崎さんは被爆したとき10歳、お姉さんの小西アカネさんは14歳。小西さんは、原爆が落とされたとき、爆心地から4キロぐらい離れた宮島の手前の草津にいました。

小西アカネ 突然、家の中庭のあたりに、オレンジ色というか赤いというか、強い光がさしてきました。あの気味悪い光は忘れることができません。
 割れたガラスが飛んできて腕に刺さってケガをしました。隣の娘さんも、近所の浜辺にいた人も、ヤケドをしました。ガラスの破片でケガをした人はほかにもたくさんいました。

(司会)小西さんと田崎さんのお母さんは、原爆が投下されたとき広島市の小網町にいました。爆心地から1キロぐらいのところです。

小西 ひどい姿の人たちが逃げてきました。父は、その人たちから広島の被害のことを聞き、浜から舟を出しました。父は漁師でしたから、舟で広島市内に入って母を捜そうとしたのです。
 やがて、父が母を連れ帰ってきましたが、母だとわかりませんでした。だって全身大ヤケドで腫れ上がっていて、黒い大きなボールみたいになっていたのです。

田崎 母は、お腹が痛いと転げ回って翌朝死んだそうです。姉は、母からも、市内から逃げてきた人たちの介護をしたときにも、放射能を浴びたんですね。

小西 母を広島に迎えに行った父も、残留放射線を受けてしまいました。頼もしかった父が、いつも体の具合が悪く、働けないようになりました。

田崎 父は、舟のイカリを体に巻きつけて海に飛び込んだり何度も自殺を図りました。いつも「死にたい」と言い、10年間苦しんで、胃ガンで亡くなりました。

(司会)池田さんは14歳のとき、爆心地から約1.5キロにあった長崎市大橋町の兵器工場で被爆しました。

池田 その日は、あちこちで火の手があがっていて帰れず、翌日やっとの思いで家にたどりつきました。自宅は爆心地から800メートルぐらいのところでしたが、母と姉と妹、二人の弟の5人は、たいしたケガもヤケドもなく全員が無事でした。

(司会)けれども、11日の朝から14日の4日間に、家族5人全員が次つぎに亡くなったのです。そして、その遺体を、14歳の池田さんは自分の手で焼きました。

池田 近所に放置されていた死体も含め、焼いたのは20人かな、30人かな……。
 でも、そんなに簡単に焼けない。おなかがパンパンに腫れ上がって内臓が燃え残るんです。それでどうしたと思いますか。棒でおなかを刺すんです。ジュルって腐った水のようなものが流れ出してきて、ものすごい臭いでした。
 でも、その臭いも、死体を焼くことも、あまり気にならなくなりました。「地獄」ですよ……。あれはほんとうに「地獄」でした。

生き残った被爆者にも容赦なく病気が

井上惣左衛門 26年前、55歳のとき、僕は急性心筋梗塞で倒れました。なぜ55歳という若さで倒れたのか、いつまた倒れるかと、常に不安を抱いてきました。

(司会)そして、井上さんが倒れたその20年後に……。

井上 長男が急死しました。長男は歯医者で、診療中に突然、心筋梗塞で倒れて死んでしまいました。
 自分のことだけでも苦しめられたのに、そのうえ息子が、僕と全く同じ病気で、僕が倒れたときより若い48歳で死んでしまった……。

(司会)原田さんは10歳のとき爆心地から2.5キロの長崎市旭町で被爆しました。

原田英俊 体の右半分にヤケドを受けました。「死の灰」のようなものもたくさん浴びました。その後、母と一緒に食料の買い出しに行くため、爆心地の近くを何度も通りました。
 30歳ぐらいから不整脈がつづき、42歳のときには狭心症と診断されました。68歳のとき、ヘソのあたりに6センチにふくらんだ動脈瘤があるといわれ、手術を受けました。

(司会)原田さんが罹った「腹部大動脈瘤」という病気は、もし破裂すれば大出血を起こして即死するという大変な病気でした。

井上 僕は、原爆が落とされた2日後、広島に入っただけです。僕や妻の家系で心臓の病気にかかった人はいません。だから、あのときに浴びた残留放射能が、僕と被爆二世の長男を同じ病気にしたのではないか、それ以外に解釈の仕様がないと思っています。

原爆被害とたたかう被爆者の思いとは

(司会)5月12日、大阪地裁が原爆症集団訴訟の判決を言い渡しました。この判決は、池田さんや田崎さん姉妹のような条件の原告被爆者全員を原爆症と認めたのです。
 しかし5月22日、国はこの判決が不服だとして大阪高裁に控訴しました。

原田 私は、残りの人生をかけて、私の病気と原爆の関係を証明したいと思います。核兵器の被害を証明することと「核兵器は使用させない」というメッセージを全世界の人びとに心から訴えたい。

井上 核兵器が「悪魔の兵器」といわれるのは、半永久的に「いのち」の存在を否定する「放射能」の被害があるからです。僕は、父親として、亡き長男への慰霊の意味もこめて原爆被害を知らせていきたいと思います。

池田 家族の死体を自分の手で焼いたときのことなどを忘れることができず、苦しんできました。
 そんなとき、若い人たちが原爆の話を聞きたがっていることを知りました。
 あんなこと、絶対に二度と起こしちゃいけない。そのために、こんな年寄りの話でも役に立つ。そうだ、私の前で死んだ家族、誰ともわからず遺体を焼いた人びとのことを話そう、生き残った者のつとめとして、私は「あの日」の長崎を伝えなければならない、そう思うようになりました。

田崎 姉は私たちを育てるため結婚もせず、被爆のことも語らず、2005年6月に肝臓ガンで亡くなりました。
 私も姉と同じ病気になり、いつまで生きられるか不安です。でも、父母や姉たちを殺した原爆(核兵器)を、この地球上から追放することが、無念をはらすただ一つの道だと思っています。

(司会)東京地裁ですすめられている原爆症認定集団訴訟の30人の原告の1人だった小西さんは、亡くなる半年前、入院先の病院で裁判所の尋問を受けました。ガンの痛みに耐えながら、初めて「ピカ」(=原爆のこと)への思いを人前で語った小西さんは、最後に一番訴えたいことを話しました。これは小西さんの「遺言」です。

小西 テレビで戦争のことを見ると、「ピカ」を思い出して、よけいに体の具合が悪くなります。
 戦争は絶対にいけない。絶対に戦争をしないでください。「ピカ」を2度と使わないでください。これが私の一番の願いです。