500号記念特集 情勢を、制度を、要求を 知り・知らせる活動に力注いで
「東友」500号の歩みは東京の被爆者運動の足跡
東友会結成は1958年11月16日。前年4月に原爆被爆者のための初めての法律「原子爆弾被爆者の医療等に関する法律」が施行された後の運動の高揚のなかで、都内18区市13組織が参加し、日本被団協への加盟を決定しての結成でした。
「東友」第1号は、結成2カ月後の1959年1月25日に発行されました。第1号には当時の代表理事・及川儀右エ門さんの「御挨拶」が掲載されています。及川さんは「原子戦争の絶滅」は「全人類に対する責務」であるとし、会員相互の連絡を密にし」「一般の理解と協力を得るため広報活動をなすこと」に主力を注ぎたいと記しました。初期の「東友」はタイプ印刷でB5判、わら半紙でした。
その後は、当時の東友会の財政事情や組織の未熟さなどから、年2回から4回程度の不定期発行で、健康診断のお知らせ、制度の案内、原爆犠牲者慰霊祭の案内と地区の会の連絡先のお知らせなどを中心に、都内の被爆者のもとに情報が届けられました。
1980年代、原爆死没者への国家補償にもとづく被爆者援護法制定運動の高揚とともに、「東友」は被爆者と遺族の願いを集め、行動への参加よびかけと成果を知らせる新聞として、重要な役割を担うようになりました。
運動の発展にともない、年数度の発行では間に合わなくなり、1993年から「東友」の月刊化を目指して準備が始まりました。1994年3月の「東友」113号から月刊化し、その発行実績をふまえ1994年6月、「東友」は低料第三種郵便物に認められました。以後、現在までこの発行形態が続いています。
1994年6月発行の116号1面。一番上、「東友」題字や奥付の左側に、「低料第三種認可」を伝える記事がある
さらに1995年7月からの被爆者援護法施行による諸手当の所得制限の撤廃、特別葬祭給付金の支給をはじめ、被爆者の運動の内容を広く知らせ、交流するために、欠かせない定期刊行物になりました。
ごく初期のころは、担当者が四苦八苦して作成していたようですが、広報部会や広報委員会という形で組織的に編集するようになってから、実に多くの被爆者が「東友」の企画・編集・発行に関わってきました。記事の執筆や校正はもちろん、写真撮影なども被爆者が担っています。
1984年7月には、被爆者のボランティア組織として「猫の手会」が結成され、「東友」の発送作業を一手に引き受けるようになりました。
「東友」は、文字どおり「被爆者がつくる被爆者のための月刊新聞」として、被爆者はもちろん、多くの支援者に被爆者の姿を伝え、国民的な支持を得る被爆者運動を支えてきたのでした。
1995年3月発行の125号1面。中野区での中学生による被爆証言の聞き書きや、町田市での被爆証言の聞き取りなど、実相普及の取り組みを伝えている
「東友」500号に寄せるメッセージ
「東友」500号を記念し、東友会と長年お付き合いがあり、「東友」を定期購読していただいている団体・個人のみなさんから、メッセージをお寄せいただきました。(五十音順)
「東友」は被爆者の皆さんと生協を結ぶ大切な架け橋
秋山純(東京都生活協同組合連合会会長理事)
東友会が永年にわたり発行されてきた機関紙「東友」が、この度、発行500号の節目を迎えられたことに際しお慶び申し上げるとともに、「東友」の発行に携わってこられた多くの関係者の皆様のご尽力に対し、心より敬意を表します。
「東友」は東京の被爆者とご家族の皆さんを支え、都内や全国の被爆者援護運動をリードしながら、被爆者とともに68年の間、歩まれ続けてきました。そして被爆二世・三世の皆様、支援者と被爆者の皆さんを繋ぐ大きな役割を果たされています。
私たち都内生協にとっても、被爆者の皆さんの今の姿を知る貴重な情報を提供いただいており、生協組合員と被爆者を結ぶ大切な架け橋となっています。被爆80年を迎えた2025年には東友会の皆さんと都内生協の協働したピースプロジェクト実行委員会を母体に「原爆パネル展」や「広島・長崎ピースツアー」を成功裏に収めることができ、その後も被爆者の皆さんとの交流と連帯は様々な形で拡がりをみせています。
「東友」には引き続き、被爆者の皆さんを励まし、被爆者と支援者を繋ぐ結節点として、これからも社会へ被爆者の声を発信し続けていただくことを期待しております。
2025年11月発行の493号1面。東京都生協連と東友会が協働して取り組んだ「被爆80年 広島・長崎ピースツアー」を報道
被爆者の思いにふれるたび胸が熱く
市川順子(原水爆禁止東京協議会代表理事)
「東友」500号達成おめでとうございます。68年間という長い間、核兵器廃絶運動とともに、被爆者援護・連帯運動を続け、発信してきたことに頭が下がる思いです。「東友」の記事は豊富な内容です。いろいろな角度から、その時世に見合った問題を取り上げ、しかも読みやすく大変勉強になりました。特に「先人たちと目指す未来」の連載記事は、「被爆者のみなさんがたいへんつらい体験をしながらも自ら学び実践する」という東友会の歴史の重みに直接触れることができ、胸が熱くなります。
また、東友会のみなさんと東京原水協との共同の取り組み記事を読んだ後には、楽しかった思い出とともに「もっとこうすればよかった」などの思いが増しました。年末見舞行動では、多くの方が「高齢のため一人暮らし。外出もままならない」等の報告を聞き、まだまだ解決しなければならない課題が多いことに気づかされました。
毎月、6日の御茶ノ水駅前での宣伝では、あの日突然家族を失った悲しさ、核兵器の非人道性の話に、毎回立ち止まって聞く人がいます。「唯一の戦争被爆国 日本政府に核兵器禁止条約の署名・批准を求める署名」の署名に快く応じて下さる方もいます。私の力は微力ですが、被爆者のみなさんとともに広範な人々に訴えて、一日も早くこの地球上から核兵器がなくなるように運動を続けていきたいと思います。
人間の根源的な意味を未来に伝えていくメディア
今理織(NHK広島放送局チーフディレクター)
私がなぜ「東友」を読むようになったか、端緒からお話しします。
2021年、東京からNHK広島局への異動が決まり、これから原爆について腰をすえて取材するぞという意欲に燃えていました。その一方で、広島に縁もなく、戦争体験もない、まったくの部外者である自分はどのような姿勢で、立場で、距離感で、被爆者に向き合えばいいのか、不安がありました。対等に話す資格などあるのか。と言って、敬して遠ざかる遠慮はいかがなものか――。
そんな時、東友会で40年間もの相談員の経験を持つ村田未知子さんを知り、取材を申し込みました。動機のひとつには、あるべき「被爆者との向き合い方」についてのヒントをつかみたいという思いが、実はあったのです。そして大きなことを学びました。被爆者はあってはならない被害を体験した唯一の人たちであり、その体験を知らない私たちは、後ろをついて歩いていく、あるいは並んで歩ませていただく。それにより、私たちは人間の根源的な意味を知り、周りに未来に伝えていくことができる――。陳腐な同情や、遠慮などしてはならない。
「東友」はそれを伝える貴重なメディアです。すべての記事は、被爆者だけの問題でもなく、被爆者以外の問題でもなく、両者にとっての、私たち皆がよりよくなっていくための課題を浮かび上がらせてくれるものです。
だから、「東友」は、被爆者のためのものであり、同時にそうでない人たちのためのものでもあると思います。
一人ひとりの顔が目に浮かんでくる新聞
園田久子(はたがや協立診療所所長・東友会顧問医)
内容の濃いそして読みやすいレイアウトで月に1回発行の「東友」をいつも楽しみにしています。
2000年12月に、はたがや協立診療所を開設し東友会の医療顧問になりました。東友会からのご紹介の内容は健康管理手当の申請が多かったのですが、最近は介護手当や被爆二世の医療費助成が多くなってきています。この点は東友会の皆様の絶え間ない東京都との折衝で作られた独自の優れた施策と毎年の改善の賜物だと思います。「相談のひろば」はついつい古い知識で対応している私自身を点検する辞書のような役割です。あわせて職員の教育にも使わせていただいています。
そして1面から4面とバラエティーに富んだ最新の情報。「原爆症認定ケースbyケース」や「地区だより」では会員の皆様のリアルな様子をみているようです。意外につい目が向いてしまうのが「相談電話のこえ」。えーっと思うような小さなことや今でも全く知らない方がいらっしゃるということに驚いています。記事はとても分かりやすくまとまっていますが、おそらく電話は相当込み入っていたのではないかと想像し事務局のご苦労に感謝しています。
最後に「事務局だより」を読むとき、東友会の事務所が目の前に現れて、事務局員の皆様お一人おひとりのお仕事を直に見ているような気分になります。
皆様お体に気を付けてご活躍ください。501号からもよろしくお願いします。
継承を支えるための「東友」
塚本晴彦(社会医療法人社団健友会・中野共立病院事務長)
私の人生の方向を決定づけたのは、京都の大学時代に聞いた被爆体験の証言でした。その後、平和運動に携わる方々の生き方のかっこよさに憧れ、職業も選びました。「私たちは自らを救うとともに、私たちの体験をとおして人類の危機を救おうという決意」(日本被団協の結成宣言)をした被爆者の証言する姿は、いつも私のあこがれでした。
いま、被爆体験の継承だけでなく、被爆者運動の歴史をだれがどのように担うのかを、みんなで考える時を迎えています。その意味で、「東友会の歴史を学ぶ 先人たちと目指す未来」として2022年7月から掲載された『首都の被爆者運動史 東友会25年のあゆみ』『沈黙から行動へ 東京のヒバクシャ30年のあゆみ』の内容は、非被爆者として重く受け止めています。東友会でお会いした先人の皆様が、どのような苦労を重ねながら今日の東友会を形作ってきたのか、その歩みをあらためて振り返ることができました。
被爆者の皆様が東京の私たちのそばにいらっしゃること、その存在そのものが、戦争が人間に何をしたのか、そして平和の尊さとは何かを考えるきっかけを与えてくれます。
私は「相談電話のこえ」など「東友」の紙面を読むたびに、そのことを深く感じます。「東友」が今後も被爆者、被爆二世の皆様のどんな小さな動きも、どんな小さな思いも、願いも、丁寧に伝え続けることが、被爆者と非被爆者をつなぎ、継承の課題をともに考える土台をつくることになると確信しています。
被爆者と支援者をつなぐ役割を果たして
内藤雅義(弁護士)
「われら生命もて ここに証す 原爆許すまじ」(青戸平和公園・原爆犠牲者慰霊碑の碑文)
この碑文は、「自らを救うとともに、私たちの体験をとおして人類の危機を救おう」という日本被団協結成宣言とともに、被爆者の心からの訴えを伝えています。核兵器廃絶と原爆被害の国家補償の2大要求が凝縮されています。
被爆者は生き延びてしまったことによる死んだ人たちに対する心の傷と放射線被害による不安(差別への不安を含む)から、語ること自体が非常に困難な状況に置かれてきました。それを被爆者同士がつながることによりともに乗り越える活動をしました。つながらないと声を上げられません。東友会が相談事業を重視してきたことの意味の大きさを改めて認識しています。
声を上げた被爆者に多くの支援者は励まされました。被爆者同士だけではなく、それを支える人とつながることによって人々は前に進めるのです。これまでもそうでしたし、これからも同じだと思います。
このようにして進められた被爆者の活動が世界を変え、世界からも評価されました。核兵器禁止条約やノーベル平和賞などです。
でも、デジタル時代の中で、高齢となった被爆者が声を上げるだけではなく、伝えることも困難になっています。「東友」はそれをつなぐ、役割を果たすのだと思います。外へ出て話す機会も困難かもしれません。どうしたら、被爆者同士、更に被爆者と支援者とをつなぐ方法を考える必要があります。その中心となる「東友」を共に考えたいと思います。
被爆者と二世、そして幅広い都民に広げて
向山新(東京反核医師の会代表・医師)
1884年に大田・大友会健診の担当として被爆者の皆様にお目にかかってから42年が過ぎました。当時、大友会の中心だった安藤賢治さんをはじめとした役員の皆さんが働き盛りで、日曜日に健診をおこなうことになったのですが、私もとうにその頃の皆さんの年齢を過ぎてしまいました。大友会健診、立川ふれあいクリニックの健診を続けていますが、被爆者の皆様の高齢化が進んで受診される方が減少し、一方で被爆二世の受診が増えてきて、時の流れを感じます。
私の本棚には、東友会30年史から65年史が並んでいます。さすがに「東友」はありませんが、「東友」に掲載されてきた東友会の運動の歴史などは、大変勉強になり、運動の励みになっています。
「相談電話のこえ」を読んで、あの方はその後どうなったのだろう、東友会のお手伝いでうまく事がすすんだのかな? と心配したりしています。まだまだ大変な状況の被爆者が多いこと、援護が不十分であり、その内容も一人ひとりにはきちんと届いていないことを感じています。「東友」が、そういった一人ひとりへ、様ざまな情報を送り届ける大切な役目を果たしているのだなと思います。
まだ東京には多くの被爆者が頑張っているし、二世、三世の課題も増えてくると思います。これからも東友会の活動を、被爆者だけでなく広く都民に広げていく大切な手段として役割を果たしていただくことを期待しています。
人類史的な視野で非核の思想を示しつづけて
八木良広(昭和女子大学専任講師)
私は大学院生の頃から20年以上にわたり、東友会を通して多くの被爆者の方々と出会い、学ぶ機会を与えていただきました。研究者として今日まで歩んでこられたのは、東友会のみなさまとのつながりがあったからこそであり、深く感謝しています。
「東友」は、広島・長崎から離れた東京という地で、被爆者の方々がどのように生き、支え合い、行政や社会と向き合ってきたのかを、長年にわたって記録し続けてきました。その積み重ねは、被爆者や被爆二世の歩みを知るうえで欠かせないものです。また、500号にわたり発行が継続されてきたこと自体にも、大きな意味があるように思います。時代ごとの声や課題が蓄積されることで、「東友」は原爆被害の実相や核兵器をめぐる社会の変化を長期的にたどることのできる記録にもなっています。
その一方で、「東友」は読む側に問いを投げかける媒体でもあるように感じます。「東友」に触れるなかで、かつて事務局長を務められた田川時彦さんの言葉を思い返すことがあります。田川さんは、被爆体験の継承にとどまらず、人類史という広い視野の中で、いかにして核兵器を絶対に許さない思想を築いていくか、という問いについて語っておられました。今もなお、その言葉に十分な答えを持つことはできていませんが、「東友」はそうした問いについて考え続ける契機を与えてくれているように思います。
広島・長崎・ビキニを語り継ぎましょう
安田和也(都立第五福竜丸展示館学芸員)
「東友」が創刊から500号を迎えられ、70年に及ばんとする東友会の活動に改めて敬意を表します。紙面で私が最初に目を向けるのは「相談のひろば」そして「相談電話のこえ」です。専門的知識と経験豊かな相談員や事務局によるお話は、被爆者一人一人に寄り添い、真骨頂だと思わずにはいられません。多くの方々が抱える戸惑いや困難を共有しながら解決の糸口へと導く、被爆者の拠り所であろうと思わずにはおれません。
さて、第五福竜丸展示館と東友会の結びつきは、船の保存のとりくみ時代から常に心強いお力添えをいただいたことにあります。26年前に展示を実現させた、この船のエンジン保存のとりくみには、東友会が都生協連や地婦連、原水協などとともにカナメの役割を果し、東京都をうごかし、展示を実現する大きなお力をいただきました。「東友」でのキャンぺーンにより多くの被爆者も応援くださり、この運動の達成を記念しての「お花見平和のつどい」は16年間つづけられ、福竜丸とエンジンを励まし続けてくださいました。
被爆者に寄り添い、多くの市民に核の怖ろしさを伝え、活動の継承にとりくまれる東友会と当展示館との一層の結びつきが深まることを願います。毎号の「東友」の引き続く刊行を心待ちにしながら祝意といたします。
東友会とその志を受け継ぐメディアとして
吉田みちお(東京被爆二世三世の会運営委員)
私の父・吉田一人は、 当時の県立長崎中学2年13歳、爆心から東南3キロメートルで被爆。爆風で十数メートル吹き飛ばされ、角の板塀に打ちつけられ、脚腰を傷めました。
高校卒業後に上京して通信社記者となった父は、1958年、東京に被爆者団体が発足するという情報を得て、後に東友会初代事務局長になる山口清氏を兜町のご職場に訪ねました。「あの日わたし長崎にいたんです」と父が言うと、山口氏の顔色が変わり、「あなたは被爆者です。被爆者手帳の申請をしてください」
そうやって父は被爆者になりました。大きなケガも病気も後遺症もなかった父は、自分が被爆者だと思っていなかったのです。その後、父は本職のかたわら、東友会や日本被団協の活動に参加し、被爆者になっていきました。
そんな父の被爆体験を、私は40歳代になって初めて聞きました。父を長崎旅行に誘い、被爆した中川町を共に訪れました。
2012年に東友会のサポートをうけて開かれた被爆二世交流会を契機として、2013年の東京被爆二世三世の会(おりづるの子)の結成に参加しました。
東友会と共に、父は被爆者に、私は被爆二世になりました。そのことにいまあらためて敬意を表します。
東友会とその志を受け継ぐ多くの方々の、一層のご健闘を願ってやみません。
読者からのメッセージ
「東友」498号での呼びかけに応え、短期間ですが読者のみなさんからメッセージが寄せられました。
一切、母は被爆を語りませんでした。「東友」がなければ、被爆の惨状、核兵器廃絶の運動、被爆の伝承をまったく知りません。乳がんになり、無知ゆえの暮らしの困難。
「東友」紙面の相談実例の数々。病状急展開への苦しさで。村田さん、的早さんに何度もお電話で相談、お手紙と、助言していただき今があります。「東友」は被爆者の「より良く生きる」の扉だと実感しています。
聴きたきは母の甘えぞ原爆忌
(吉田正子・被爆二世)