東友会への相談事例から 歳月の重みを受け止めた援護を
東友会相談所には、いろいろな相談が寄せられますが、被爆から76年という歳月の重みを感じさせる相談がありました。原爆被害に対する本当の援護・救援を考えるための事例として紹介します。
事例1 被爆者健康手帳申請 男性・99歳
学徒動員で1943(昭和18)年12月に入隊。1945(昭和20)年8月6日、広島・宇品の運輸部岸に接岸、艇の司令塔上に出ていたときに被爆しました。当時は、陸軍暁第2940部隊矢野部隊の輸送潜航艇ゆ艇(「ゆ」は、丸のなかに「ゆ」)の航海長でした。被爆後は、市内の紙屋町住友銀行辺りまで入市して、死体処理や救援活動にあたりました。
この際、戦災証明書を配布しましたが自分の証明まで気が回りませんでした。今となっては、当時の戦友たちの連絡先もわからず、被爆者手帳申請に必要な証人探しを断念していました。
100歳近くとなり、家族に強く勧められ、命があるうちにと申請することを決断。東友会に相談しました。これまで、軍歴証明書、『広島原爆戦災誌』に載っている本人の手記などを提出しましたが、手帳交付に至る証拠になりませんでした。戦災誌の「手記」は、編集スタッフが名前を間違えて掲載していたからです。
「東友」2月号(436号)と日本被団協の新聞(3月号)に証人探しを載せたところ、その記事を見た諏訪市の方から「父親が同じ部隊にいて、同じような状況で被爆した手記がある」と資料が送られてきました。貴重な情報でしたが、被爆場所が違うため証拠とはなりません。
被爆していても、証人がいないため申請を諦めている人が、実はたくさんいます。被爆76年を経たいま、決定的な証拠を見いだすことは大変困難になり、認定する行政側も判断が難しい状況になっています。
事例2 被爆二世の健康診断受診票と医療費助成申請 男性・69歳
1965(昭和40)年に鳥取県で亡くなった父が被爆者手帳を持っていた記憶があったので、「骨髄異形成症候群」と診断されたとき東京都独自の「医療費助成」の申請を考えました。「医療費助成」には被爆者の子の「健康診断受診票」の交付が条件になっています(東京都ではこれが被爆二世の登録にあたる)。しかし、申請を受けた東京都が同県に照会したところ、「記録がまったくない」との回答で、「健康診断受診票」の交付ができない状況になりました。
申請者や兄姉は、父が被爆後全身ボロボロになって帰ってきたという話を祖父から聞き、父ががんで亡くなったとき、被爆者だったから医療費がかからなかったと、周囲の大人たちが話していたことを覚えていました。
兄が県に問い合わせると「当時手帳を持っていた証拠になるものが一片でも見つかれば、探しようがあるかもしれない」との回答。兄が実家を探したところ、父が亡くなったころに祖父が書いた記録が見つかり、そこには県の手帳の交付日、手帳番号が書かれていました。今後はその記録を鳥取県に届け、改めて調べてもらうことになりました。