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2008年新春対談 東友会結成50年の歩みとこれからの被爆者運動

 被爆63年目であるとともに東友会結成50周年という節目の年頭にあたり、飯田いいだマリ子まりこ会長と藤平とうへいのり副会長に、東友会の歩みをふり返りつつ、これからの展望を語り合っていただきました。(文責:編集部)

飯田いいだマリ子まりこ
東友会会長。長崎被爆。
藤平とうへいのり
東友会副会長。広島被爆。

飯田いいだマリ子まりこ会長(以下、飯田)
 明けましておめでとうございます。
藤平とうへいのり副会長(以下、藤平)
 おめでとうございます。2008年もよろしくお願いいたします。
飯田 2008年は広島・長崎に原爆が投下されてから63年目。あの日から今日までいろんなことがあり、ずっと「被爆」を引きずって、それでも生かされて63年目を迎えることができましたね。
藤平 ほんとうに様々なことが思い起こされます。そして、2008年は東友会が結成されて50周年という意味でも特別ですね。
飯田 そう、50周年。とても大きな節目ですよね。そういえば、藤平さんと私が東友会の運動に参加し、役員をするようになったのは同じ時期でしたよねえ。
藤平 ぼくは1967(昭和41)年に中野の会に参加し、69(昭和44)年に初めて東友会の総会に出席したのです。いきなり議長をさせられて面食らったりしましたけど(笑)。
飯田 そうそう。翌70(昭和45)年は被爆25周年ということで、東友会として初めて広島と長崎に「慰霊墓参団」を送ったのですね。広島墓参団の事務局長が藤平さんで、長崎墓参団の事務局長が私でした。ずいぶんたいへんでしたけど(笑)。
藤平 二人とも若かったですからね(笑)。

先人たちの苦労を受け継いで

飯田 私たちは、東友会の結成には直接かかわってはいないのですが、行宗一さん(現顧問)や片岡強さん(元会長・故人)、伊東壯さん(元会長・故人)など、多くの先輩たちが努力されていました。1956(昭和31)年8月10日に日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)が結成されてます。やはり被爆者にとって健康の問題は東京でも深刻でしたから、日赤病院での自主的な健康診断などで自然と被爆者が集まるようになり、「原爆被災者の会」が発足したと聞いています。
藤平 ぼくも、そのころの詳しいことは体験していませんが、原水爆禁止の大きな国民世論の盛り上がりもあって、被爆者ではない方々がずいぶんと支援してくださった場面があったようです。そして、東友会が正式に結成されたのは58(昭和33)年11月16日でした。
飯田 最初は18区市町の13組織で結成。当時の会費は「年間1世帯10円」という記録が残っています。まだ戦後の経済的にたいへんな時代で、裸一貫で上京したような人もあり、生活の苦労をしている人が多かったんですね。
藤平 東友会結成後は、まず組織としての地盤を固めること、そのための会員拡大、財政基盤の確立などに、先人たちは腐心されたと聞いています。
飯田 小島利一さん(元事務局長・故人)が、おりづるバッジを企画・製作し、「核兵器なくせ。ふたたび被爆者をつくるな」という被爆者の願いと運動を広げるとともに、財政活動にも貢献されました。
藤平 東京都との交渉もとりくまれました。62(昭和37)年からは、東友会として都から被爆者相談等の事業委託を受けるようになり、最初の委託事業費は年30万円。今では年1579万円ですね。
 東友会で被爆者調査もおこない、70(昭和45)年には、激論のすえ被爆二世調査もおこないました。事実に基づいて都と交渉することで、東京都被爆者援護条例に結実でき、不十分ながらも二世施策を実施できています。
飯田 こうお話ししていると東友会は順風満帆でやってきたようですが、63(昭和38)年には財政上の行き詰まりから解散の危機もありました。ここでも、安藤賢治さん(現顧問)や永坂昭さん(元事務局次長・故人)などの先輩がたが奮闘され、解散は避けることができました。
藤平 それだけ、東京在住の被爆者にとって東友会が必要とされていたのでしょう。被爆者の要求と願いで一致団結しようと誓い合ったと聞いています。

幅広い国民のみなさんとともに

飯田 支援者のみなさんの励ましも忘れることができません。66(昭和41年)6月1日、都立体育館で「東京の原爆被害者を励ますつどい」が開かれ、田川時彦さん(元会長・故人)なども、この集会で感銘を受けて被爆者運動に参加するようになったとおっしゃってました。
 73(昭和48)年、5日間におよぶ厚生省(当時)前での座り込み行動も、数多くの支援があってこそ、成功させることができたと思います。
藤平 あの座り込みのとき、中野の沢村美知子さんという方が、「東友会の運動の基礎は、"力ある者は力を、金ある者は金を、知恵ある者は知恵を"。私は何もないから5日間座り込みます」と語った。この言葉はいまも忘れられません。
飯田 どんな小さなことでもいい、それぞれができることをやる。そうした被爆者の努力に感動して応えてくれる人たちがいる、その人たちの励ましに支えられ被爆者がまたがんばれる――そんな感じですね。
藤平 そうです。これは東京のなかだけではありません。77(昭和52)年の「被爆問題国際シンポジウム」は、その典型ですよね。草の根から被爆者一人ひとりに聞き取り調査をし、世界の第一線の専門家をまじえて話し合った。
飯田 翌年の第1回国連軍縮特別総会(SSD1)につながる流れですね。東友会でも「平和のための東京行動」に参加するなど、世界と呼応しあうことを実感したものです。
藤平 幅広い国民的な世論の広がりが、被爆者の運動を高めたといえますよね。こうして「核兵器なくせ」の運動が盛り上がる中、80(昭和55)年12月に、厚生大臣の私的諮問機関である「原爆被爆者対策基本問題懇談会」(基本懇)が、原爆被害を含めたすべての戦争被害の「受忍」を答申したのでした。
飯田 これに対する被爆者の答えが、84(昭和59)年11月の「原爆被害者の基本要求」。「核兵器なくせ」と「原爆被害への国家補償」を正面から国に求めたものですね。

被爆者しかできない働きを信じ

藤平 いま考えると、昔は私たちを含めみんな現役世代で、日中はそれぞれの仕事をしていました。そして、夜に東友会に集まって話し合い、役割を分担して活動していましたね。
飯田 そうでしたね。財政危機もあって、交通費なんか出ないし、東友会に行くにも、国会に行くにも、被爆者訪問をするにも、何をやるにも、みんな手弁当でした。
藤平 私はとうとう体調を崩して倒れたこともありました。それでも東友会の運動をやめられなかった。飯田さんもそうでしょう。それはなぜですか。
飯田 私たち自身、あの原爆地獄を体験し、そして肉親、友人、その他大勢の人たちの死を目の当たりにした。それを黙って受け入れるわけにはいかないからだと思います。
藤平 そうですね。語り部として何度も何度も被爆体験を話すのも、原爆写真展をするのも、座り込みや平和行進をするのも、私たちのような原爆被害者を二度と生み出してはいけないという思いがあるからです。
飯田 私たちは歳をとりました。もう動けないといって東友会をやめたとしても、被爆者であることをやめることはできません。次の世代に私たちの体験をくり返させないために、どんな小さな努力でもしつづけなければ、種をまきつづけなければ…。
藤平 受け止めてくれる人があるから被爆者はがんばれる。被爆者としても、そういう人たちとのつながりを信じ、体験と願いを語り継ぐことが被爆者の生きがいになれば、と思います。
飯田 2008年は、原爆症認定集団訴訟でも大きな転機を迎えることになりそうです。東友会50周年の記念事業もあります。被爆者同士はもちろん、幅広い人たちと支えあい、団結しながら、前進できる一年にしたいですね。
藤平 多くの先輩被爆者の努力を引き継ぎ、平和な未来に向けてみんなで力を合わせましょう。