被爆70年東京原爆展大きく成功 ヒロシマ・ナガサキの心を未来へ
被爆者と幅広い人びとが紡いだきずな
東友会が被爆70年事業として丹念に準備してきた「東京原爆展――つたえ広げようヒロシマ・ナガサキ――」が、2015年11月23日から28日まで「としまセンタースクエア」で開催され。会期中1000人を超える人びとが会場に足を運び、多くのみなさんの協力を得て大きな成功を収めました。
今回の原爆展は、豊島区との共催。東京都・広島市・長崎市からの後援と、東京都生活協同組合連合会、東京都地域婦人連盟の協賛を得て幅広く呼びかけられました。
会場は、今年5月にオープンしたばかりの豊島区役所新庁舎1階の多目的スペース。開催時間も、最終日を除いて午前10時から午後8時までと、これまでになく遅くまで開いており、休日や夜間も一部の区役所業務がおこなわれているため、区役所を訪れた地元の人たちが展示会場に立ち寄っていました。
被爆70年にふさわしく
今回の目玉は、今年4月から5月にかけて核不拡散条約(NPT)再検討会議の会場となった国連本部に展示されたパネル50枚を、首都圏ではじめてすべて展示。被爆体験の証言、DVD上映コーナーも設けました。
ネットテレビ「池袋テレビ」と有線テレビ「豊島テレビ」の地元2局が、原爆展の模様やインタビューを放映。視聴者に広げてくれました。
23日の初日は、休日にも関わらず豊島区の高野之夫区長、村上宇一区議会議長をはじめ、副区長、教育長らが駆けつけ、説明を聞きながら展示パネルや資料を見て、被爆証言に聞き入っていました。豊島区議会各派の区議、都議会議員、東京都の担当課長ほかの職員も来場。昼休みに見学にくる豊島区の職員も日ごとに増えました。
確かな手ごたえ
子ども連れや若いカップル、夫婦で来られる方も多く、なかには「よくぞこのような展示を豊島でやってくださった」と言ってくれる人、普段着のまま毎日のように観にくる人、夕方遅くに「仕事が終ったので」と遠方から来てくれた人もいました。
被爆体験を語るコーナーが知られるにつれ証言を聞きに訪れる人が増え、参加者があふれる日があったり、予想を上回る来場者に配布資料が足りなくなったり、うれしい悲鳴が何度も上がりました。感想文は、小学生から戦争経験者まで120人以上から寄せられました。
被爆70年東京原爆展 節目にふさわしく多彩な工夫と新しい取り組みが
説明員学習会など事前準備に余念なく
東友会は「原爆展」開催前の11月14日、説明員とスタッフを対象に学習会を開き、説明員として参加を申し出た被爆者、被爆二世36人が参加。豊島区総務課の担当者も「平和担当なので勉強させてください」と参加しました。
初めて展示する今年の「国連原爆展パネル」の内容と、被爆者が世界に向けて核兵器廃絶を訴え続けてきた意義について学習。東友会が原爆展に向け作った戦時中や原爆関連の「用語集」も配付し、説明員とスタッフの役割について討論しました。
会期中、初めて説明員として参加した被爆者は、参観者に説明をするなかで被爆の記憶を広げることの大切さを改めて感じ、当番でない日に家族を連れて見学に来ました。
力を合わせて
これまでの原爆展もそうでしたが、今回も原爆展企画委員会を中心に被爆者自身ができることは自分たちで取り組みました。
会場の現地調査をおこなって機材の使い方やパネルボードの寸法などを確認し、縮小版の配置図を作成してパネルの配置を決めました。おりづると子どもの絵を配した入口の看板も、掲示場所に合わせて大きなものを作りました。
重い機材の搬入やセッティングは業者に依頼しましたが、個々のパネルの設置や撤去、説明文の張り出しなどは、すべてスタッフが手分けしました。
初めての会場でしたが、最後まで力を尽くすことができました。
共催の豊島区 きめ細かな対応に感謝
東友会が2009年2月から7回、東京都庁展望室で開いてきた原爆展の会場を変更したのは、NPT再検討会議のために日本被団協が国連本部で展示した50枚のパネルの全てを展示したいとの思いからでした。都庁での展示は、悲惨な当時の写真や原発事故、核実験問題などのパネルの展示は遠慮してほしいとの制約があったからです。この思いで会場を探していた東友会に、本橋弘隆豊島区議会議長(当時)から「建替中の新庁舎で」との声がありました。
原爆展が豊島区と共催になったため、会場費、展示パネルなどの区の機材使用は全て無料になりました。
担当の豊島区総務課は、事前の打ち合わせから展示作業、早朝から夜間におよぶ場内管理、宣伝ポスターの作成と区民への周知、最終日の撤収作業まで、きめ細かく対応してくれました。