お花見平和のつどい 第五福竜丸エンジン移設から16年の交流に幕
核兵器のない世界への思い共有し運動を支えた8団体
2016年も満開のサクラを愛でながら、4月3日、「お花見平和のつどい2016」が、夢の島公園内の第五福竜丸展示館周辺で開かれ、190人の人びとが参加しました。つどいは、2001年から、東日本大震災直後の11年を除く毎年、第五福竜丸エンジンの移送と設置をすすめた東京の市民・平和8団体が「第五福竜丸から平和を発信する連絡会」として15回開催してきたもの。連絡会の中心を担ってきた団体の構成員が高齢化したことから、今回が最終のつどいとなりました(おもな経緯は別記)。
つどいは、エンジンの移送から運動を支えてきた東友会の村田未知子事務局主任の司会で進行し、東京地婦連の谷茂岡正子会長の開会のあいさつの後、参加者が「花」を歌いながら、手を繋いで第五福竜丸の船体を囲むパフォーマンス。つづいて、1997年から1998年のエンジンの移送と保存をすすめた運動を東京都生協連の竹内誠代表理事、東京原水協の柴田桂馬代表理事、東友会の山本英典執行理事が、東京地婦連の宮原恵子総務・経済部長は、設置直後のエンジン脇に八重紅大島桜の幼木を植樹した経過などを、スライドを上映しながら報告しました。
この日は、あいにくの曇りでときおり小雨がぱらつく天候でしたが、桜の下でのピースミュージックの頃には薄日が射してきました。
参加者はベトナム歌謡の美しい歌声を聞きながら昼食。その後、第五福竜丸平和協会の安田和也事務局長から、エンジンが長い間海底に沈んでいたときの塩分と、屋外に設置されたために潮風による浸食がすすんで、保存が危機状態になっているとの説明を聞き、ため息がもれていました。
共催した各団体は、この16年間、エンジンの保存と桜を育てた運動とともに平和活動について報告。東友会の家島昌志執行理事は、被爆者の核兵器廃絶運動の一環として、このつどいに企画から参加し続けた東友会の運動を報告しました。
最後に参加者は手を繋いでエンジンを囲み、これからも、ただ一つ保存された「水爆実験の証人」である第五福竜丸の船体とエンジンを守り続ける決意を固め合い、16年間の運動の区切りとしました。
第五福竜丸エンジン移設運動のおもな経緯
- 1967年(昭和42年)
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- 第五福竜丸のエンジン、東京都江東区の解体業者から三重県尾鷲市の貨物船・第三千代川丸に搭載される
- 1968年(昭和43年)
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- 7月21日 第三千代川丸が三重県阿田和沖で、濃霧と台風のため座礁、エンジンは海中に沈む
- 1996年(平成8年)
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- 12月2日 和歌山県海南市の個人が自費でエンジンを引き揚げる
- 1997年(平成9年)
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- 3月1日 和歌山県で、エンジンの東京への移送運動をすすめる「第五福竜丸のエンジンを東京・夢の島へ」和歌山県民運動が発足
- 10月3日 東京でも移送運動をすすめる「都民運動」発足
- 1998年(平成10年)
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- 3月19日 都庁前で、東京都知事にエンジンを贈呈 エンジンは東京夢の島公園で船体と再会
- 1999年(平成11年)
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- 2月10日 京都で、保存のための塩分抜きの修復
- 2000年(平成12年)
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- 1月9日 第五福竜丸展示館前に完成した設置施設でエンジンの一般公開はじまる
- 東京地婦連がヤエベニオオシマザクラを植樹
- 1月22日 「都民運動」が「第五福竜丸エンジン・お帰りなさい集会」開催
- 東京地婦連のよびかけで、「第五福竜丸から平和を発信する連絡会」を結成。構成団体は、東京地婦連、主婦連、東京都生協連、都地消連、日本青年団、福竜丸平和協会、東京原水協、東友会の8団体