吉濱幸子さんの被爆証言 (原爆症認定集団訴訟の法廷にて)
1 私は、爆心地から約1.2キロメートルで被爆しました。当時14歳でした。
当時、私は、学徒動員のため広島市天満町の三宅製針で働いておりましたが、原爆が投下された午前8時15分は、たまたまお友達の女学生4人とその庭で防空壕を掘っているところでした。
防空壕といってもまだ作り途中で、平堀りで、上に覆いはなく、深さ2メートルくらいのただの穴でしたが、その防空壕の穴にいたところ、その時が訪れました。突然、ピカッ、と閃光におそわれ、ドカーンという大音響がひびき、爆風によりあらゆる破壊物が穴の上に飛んできました。
ピカッ、という光は防空壕の中まで届き、あたりの地面が一面黄色くなったように見えました。
私たちは、防空壕の中でビックリしてしゃがみこみ伏せてひたすら小さくなっていたのは覚えておりますが、その後気が遠くなり気を失いました。
2 たぶん10分間くらいは気を失っていたと思います。
その後防空壕の外に出てみると言葉にならない光景がありました。
あたり一面が瓦礫の山で、方々で立木や倒壊した家屋から真っ赤な炎が上がっておりました。
そして、そこらじゅうに数限りない数の死体が転がっていたのです。
なんとうおぞましい光景であったでしょうか、まさに生き地獄でした。
私たちは、なぜこうなったのか理由のわからない地獄のような光景から逃げるため、生存していた人たちの流れに従い、己斐の山の方に歩いていきました。「とにかく逃げなくちゃ、逃げなくちゃ」と思い、必死に逃げました。本当に必死で、靴を履いていないこともしばらく気がつきませんでした。
そのとき、急に空が暗くなり、大粒でどろっとした黒い雨を全身に浴び、数分間打たれ続けました。
避難してゆく人々は皆裸で、皮膚が焼け爛れて垂れ下がり、ボロを着ているような感じでした。
私は、防空壕の穴の中にいたおかげで火傷はしませんでしたが、必死に逃げたときに、がれきや破片で頭・手足・顔等の露出部分に怪我をしました。
3 避難してきた人たちは、己斐の山の中腹辺りで集まっておりましたが、いずれも皮膚が焼け爛れ、見るからに痛々しい状況の方ばかりで、母に抱かれた赤ん坊が泣きじゃくっておりましたが、その赤ん坊まで皮膚がつるつるで赤びかりしておりました。
そこではさかんに「ピカドン」という爆弾が落ちたといわれていました。
その後、私は、友人のお父様のご配慮で、大野町にある友人の自宅に一晩泊めてもらい、翌日、段原東浦町にある自宅に帰りました。
友達のお父様が私を自転車の後ろに乗せて自宅まで送って下さったのですが、その帰り道は市内を横断する形になり、己斐駅あたりからは一面の瓦礫と死体で全て覆い尽くされ,自転車に乗ったたままでは進めません。
しかも死体は炭化して黒く墨のようになっておりました。
そこで、私達は自転車を降り、お父様が自転車を引いて歩いていくのを私は後ろからついてゆきました。
歩けるところを探しながら道なき道をさまよい、何時間もかけて自宅に向かいました。
道すがら方々で死体をピラミッド状に積み上げて焼いており、髪の毛が焼けたような胸がむかつく悪臭が漂っていたのを覚えています。
4 自宅に着くと、母、父、姉がおりましたが、当時小学校2年生の弟は原爆で亡くなったと母から聞かされました。
自宅の外の道で遊んでいたときに被爆し、爆風で飛ばされたのを近所の方が連れてきてくれたそうです。
弟は出血多量の上、お腹がパンパンにはれており、お腹が痛いと言いながら母の腕の中で亡くなったということです。
私のおじとおばは、被爆直後から全身に斑点が出て、その後頭の毛が抜け、熱が出て食べ物を食べなくなり、結局、被爆後1週間くらいでいずれも亡くなってしまいました。
5 私は、約1.2キロの直爆でしたので生きていただけでも奇跡的と言われましたが、その後、体に数々の変調が出るようになりました。
被爆直後から何度も下痢をし、被爆から1週間か10日過ぎには熱を出して寝込みました。その後もずっと風邪や下痢にはなりやすく、また治りにくくもありました。 逃げるときに負った怪我も、それほど深いものではなかったのですが、化膿し、治るまで1年くらいはかかりました。
また、被爆後1ヶ月後くらいから、視力が低下し、黒板の字が見えにくくなり、字が二重に見えたり、字を読むと頭が痛くなるようになり、当時通っていた女学校でも一番前の席に座るようになりました。
昭和23年ころからだったと思いますが、ホルモンの異常が原因で生理が不順となり、生理が来ない月があったり、一月に2回来たりもしました。この生理不順はその後もずっと続きました。
貧血が頻繁で症状も激しくなり、昭和37年ころには急に意識がなくなって外で倒れるようになり、特に夏は低血圧になり大変でした。昭和41年ころに鉄欠乏性貧血と診断されました。
そして、特にひどくなったのが心臓と手の振るえです。
被爆する以前は活発な女学生で心臓が悪いなどということはありませんでしたが、被爆後心臓が悪くなり動悸が激しくなって、歩いていても心臓がドキドキして立ち止まらざるを得ない状態になりました。昭和41年ころには、血流不足により顔面にまで簡単に凍傷ができ、そのひぶくれがつぶれ外出もできませんでした。
また、手が震えて字が書けないことが頻繁にありました。
これまで、私は、薬学の勉強をして薬局を経営してきましたが、その間「とにかく頑張らなければ」というひたむきな思いで生きてきましたので、貧血が起きたり心臓に変調があっても、つらさに耐えて、もっと、もっと頑張らなくっちゃ、という気概でそれらのつらさをあまり問題としないように抑えてきました。
しかし、下肢のむくみや筋力の低下がひどく足が上がらないようになったため平成17年に診察を受けたところ、バセドウ氏病といわれ、その後代々木病院では、甲状腺機能亢進症と診断されました。
また、これらの身体的な症状に加え、「被爆者とは結婚させない」という偏見があり、被爆のため精神的にも随分いやな思いをさせられました。
6 私は、1.2キロメートルで直爆に合い、これまで被爆のためにつらい思いを強いられてきたのは事実なのにどうして国は被爆者を救済してくれないのですか。
国は被爆の実態を理解していません。
私は、他の被爆者のためにも体が続く限り被爆のこわさを訴え続けてゆきたいと思います。