今井和子さん 「失われた若い命」

今井和子さん

 1945年8月6日私は5歳。広島の爆心地2キロメートルの自宅縁側で被爆しました。
 ピカッと烈しい閃光が走り、地響きのような爆音、ものすごい風が巻き起こり、何かが音を立てて飛び散り、暴風の中に居るようでした。でも真っ暗で何も見えませんでした。
 次に見たものは、崩れそうに歪んだ家の中に、ガラスの破片が飛び散り、家具は散乱し、30キログラムもある畳も数枚庭に落ちていました。爆風によって吹き飛ばされたのです。母と私はガラスの破片で怪我をしましたが、祖母は、怪我も無く無事でした。何が起こったか全く解らないまま、隣の家が火を噴いて燃えていたので、非常用のリュックサックだけを持って、三人は家を飛び出しました。 
 私達は、知人の家に向かいました。家族の集合場所と以前より決められていた所です。街の中は建物の倒壊、炎上はどこまでも続き、道は塞がれ人々は逃げ惑っていました。市街地を抜けて田舎道にさしかかった頃、人々が群れになり、列になり、前へ前へと歩いていました。そこへ、ゆっくり馬車が通りかかり荷台には怪我人、火傷の人がたくさん乗っていました。一番後ろに乗っていた人の背中は一面真っ赤に焼け爛れ、その無表情な顔を、今も鮮明に憶えています。途中で突然夕立のような雨に合いました。これが後に言う、放射性物質を含んだ黒い雨だったのです。
 私達は知人の家にたどり着き、中学校の教員をしていた祖父を待ちました。一日経っても来ません。母は、私を知人に預け6キロメートルの道を往復し、焼け爛れた街の中で祖父を探し続けました。黒焦げの遺体の中に祖父らしい人があると、口を開けて、祖父の特徴だった金歯を確かめたそうです。一週間探しても、手掛かりはなく、祖父は遺体も無く、遺骨も無い行方不明者となりました。そして、私達家族は祖父の死を認め、「原爆」を心の奥に封じ込めてしまいました。
 その後、広島を離れて再出発をしましたが母の身体は放射能に蝕まれていました。髪の毛は抜け、傷口は治らず、歯茎から血の塊が出て、いつも臥せっていました。晩年は甲状腺機能障害から心房細動、脳梗塞となり寝たきりの状態となりました。

 8月6日の朝、出勤したまま行方不明者になった祖父に、何が起こったかを知ったのは60年後のことでした。祖父が勤務していた学校や当時を知る卒業生の協力により少しづつ解ってきました、爆心地から500メートルの川沿いにある旅館の取り壊し作業中に、35人の生徒と一緒に被爆死していました。祖父は即死状態だったとのことです。13~15歳の生徒達は、わずかに残された命の中で「お父さん、お母さん」と呼びながら亡くなっていったそうです。子供を亡くした両親にとって、「先生も一緒だった」と少しの慰めになるならば祖父は教員の役目を果たしたのかも知れません。祖父は54歳でした。このようにして失われた10代の命は、祖父の中学校で512人、広島市全体で7000人と言う事です。
 おなかいっぱい食べることも無く、学ぶことも、遊ぶことも止められて、働きながら断ち切られてしまった痛ましく、悲しいティーンエイジの生涯です。私の孫は祖父と一緒に被爆死した生徒と同じ年齢になりました。孫達は、平和が続くことを信じています。犠牲になった子供達、未来を生きる子供達のために私達は平和を守る責任があります。

 6年前、オバマ大統領は核兵器廃絶への目標を示しました。それがノーベル平和賞に繋がった事は世界の人々が知る事実です。そのことが後退することなく、実現へ向かうことを願ってやみません。そして私達日本は、平和憲法を持っています。戦争をしません、戦争のための軍隊を持ちません。意見が合わない時は戦争ではなく話合いで解決します。これは戦争の犠牲者によって日本に与えられた憲法なのです。だから日本は70年間どこの国とも戦争をしていません。アメリカと日本は巨大な「核の傘」の下で成り立つ関係ではなく、世界に誇るプラハ演説と平和憲法の国として核兵器全面廃絶実現のため世界に発信して行きましょう。