被爆者相談所および法人事務所
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吉田忠さんの被爆証言 (原爆症認定集団訴訟の「証拠保全」として入院先での証言)

一 原爆投下当時の状況

吉田忠さん

1 私は、1929(昭和4)年11月22日生まれで、原爆の落ちた1945年8月当時15歳でした。私たち家族の自宅は浪之平町にあり、両親と兄、妹二人、弟の7人家族でした。

2 同年8月9日11時2分、私は爆心地から約2.5キロメートル離れた、長崎市平戸小屋町所在の三菱電機長崎製作所の工場内の2階で旋盤工作業をしている最中に被爆しました。工場の2階部分は、1階建の数棟の工場の上部に廊下を渡してつないだ部分を作業に利用する吹きさらしの構造で、旋盤工作業とパラシュート縫製作業が、それぞれ廊下の端から端まで両作業とも機械がずらりと列をなして行われていました。2階部分の屋根はトタン屋根で、採光のために海側がガラス張りで、山側は手すりがあるのみでしたが、爆風で柱と床を残して破壊されてしまいました。
 私は爆発の閃光を感じたと同時にガラスが内側に向かって膨らんでくるのを目にした時に、咄嵯に旋盤の機械の下に潜り込んだらしく、被爆後しばらくして意識を取り戻したとき、旋盤の機械の下に体が潜り込んでいました。
 私は窓ガラスを背にして作業に従事していたため、頭と首に多数のガラスの破片が突き刺さっておりました。また、左下腿のすねには潜り込むときにえぐったのか、骨が見えるほどの深い傷を負っていましたがなぜか出血はさほどではありませんでした。
 起きあがったときに浦上川の方角で火の手があがっているのを見たのを覚えています。
 私は、意識が戻ってから、この工場では大型の精密機械を徐々に裏山のトンネルに格納していたのを思い出しました。それで、このトンネルに逃げ込もうと考えた私は、工場の2階から外付けの階段を降りて逃げることにしました。
 また爆弾が落ちてくるかもしれないと恐怖感に駆られて必死で逃げ出そうとしていたので、どのように階段を降りたかは詳細には記憶していません。ただ、旋盤機械が並んでいたほうは屋根が落ちてきていて通れなかったので、縫製作業用の機械が並んでいた側を通って階段に向かいましたが、この廊下を通って逃げている際にとてもグニャグニャした人間の体のようなものを踏みつけたような印象が鮮烈に残っています。

3 私は頭と首にガラスの破片を受け、左下腿のすねに骨が見えるほどの傷を負っていましたが、トンネル内に逃げ込んで一息ついて、すねの傷にぼろ布を巻いたところで、大人の人から「工場内にまだ多くの負傷者がいるので救護活動をしなければならない」といわれました。
 従業員のほとんどは逃げ出したり、機械などの下敷きになったりしていて少なくなっているので、私たち子どもも大人たちから働く数に数えられて、負傷者を担架に乗せてトンネル内に運び込む作業を行う班に編成されました。
 私たちは、何度となく真っ暗な工場内に入って救護を行いましたが、工場内の救護を求めている負傷者と比較すれば私の怪我は軽傷の部類に入るなと思われるような悲惨な状態でした。私の記憶では途中で「黒い雨」も降ってきていたと思いますが、救護活動に没頭していた私はこれを防ぐような余裕はありませんでした。
 このように、私は前記のような怪我にも関わらず、工場内にとどまって担架で死体を運んだりして救援作業を手伝い、工場内で10日間を過ごしました。この間は、1日1食の雑炊が配給されただけだったので、空腹を紛らわすために、破裂した水道管から溢れてきている水を毎日大量に飲んでいました。
 10日後に救護の指揮を執っていた大人のひとから「帰っていい」と言われましたが、稲佐橋を渡って帰ろうとしましたが帰れなかったので同じような状態で困っている人たちと一緒に船を調達して向かい側に渡ることができました。

4 私が浪之平町の自宅に帰ったのは8月19日ころでした。その後米軍が進駐してくるとの噂があって、一時諌早の小野村に避難しましたが、特に危険なこともされないと判って9月ころには自宅に戻りました。
 自宅に戻ったころから下痢、発熱、嘔吐、歯齦出血といったいわゆる急性原爆症の症状が発現しました。倦怠感も生じるようになり、これらの症状は1年間ほど継続しました。また、被爆後半年経過した頃から、被爆時にガラスで受けた首と左下腿の傷が化膿したままでなかなか治癒せず、1948年4月頃まで症状が続きました。戦後の混乱と重傷者の治療が優先されたためか、私のこれらの急性症状や外傷について治療は受けられませんでした。

二 その後の健康状態

1 私はその後、1960年9月まで長崎市高平町に居住していましたが、そのころでも小さな怪我でも化膿しやすい状態が継続していました。
 1952年ごろまでは三菱電機で毎日掃除や片づけの仕事をして働いていましたが、その後は三菱電機の指示で進駐軍の施設の手伝いをしたりしていました。
 1952年に虫垂炎の手術を受け、腸が癒着したということで、その後3回手術を受けました。虫垂の手術の頃は体重が40キログラムくらいになっていました。もっとも私は被爆後は体が疲れやすく、体重は最大でも50キログラムにしかなったことはありません。3回日の手術は最初の虫垂の手術をした2年後でしたが、その時輸血を受けました。

2 その後、東京に出てきてから後、現在もお世話になっている小豆沢病院の石川先生から1998年頃C型肝炎と診断されて、継続的に治療しなければならなくなりました。肝炎と言われてからは今まで以上に体が疲れやすいように感じますし、思うように働けなくなりました。
 さらに2001年5月には肝ガンを併発していることが判明し、2001年の8月に東京大学付属病院に搬送されて切除手術を受けました。
 その後は体力の低下が著しく、近所の小豆沢病院の関連の診療所に殆ど毎日家族に付き添われて通院し、治療を継続している状態でした。もともと体力がないので、日常生活も大変でした。
 しかし、2003年6月から8月に数度の東京大学付属病院への入退院を繰り返しているうちに肝臓に癌が3カ所発見されたということで、新たに切除手術を受け、手術後二週間程度で退院ということになりました。
 私は体を動かす体力もなく、寝たきりの状態で退院させられました。食事ものどを通らないのでしばらくは点滴で栄養をとっていました。
 8月の終わり頃になってやっと少し形のあるものを口にすることができるようになりました。
 9月11日には私たちが原告として起こした裁判が開かれることになっておりましたが、残念ながら裁判所に出席するだけの体力も回復しませんでした。最近になってやっとベッドから体を起こして、住まいの周りを少しだけ歩くことができるようになりましたが、体重はまだ41キログラム程度で、少し起きただけでもしんどくてたまりません。

三 私の思い

 医者の話では、今後も大変だろうからともかく体力の回復が一番で、養生しなければならないとのことでした。
原爆を受けた体ですから、健康に大変不安があります。正直何時どのようなことが私の体におこるか判りませんが、命のある限り原爆の被害を訴えていきたいと思います。
 私たちのような体にした責任を国にとってもらいたいと思います。もう原爆で人が傷つくことのない世の中になるように、すこしでも役に立てればと考えています。裁判所におかれましては、私のこのような気持ちをお汲み取りいただき、審理を進めていただきたいと思います。
 よろしくお願いいたします。