被爆者相談所および法人事務所
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平山眞一さんの証言

【父・平山眞一さんの証言を携えて2015NPT会議要請団に参加したのは、被爆二世の平山雪野さんです。】

 僕は今日まで被爆体験をしゃべったことがないし、今後もおそらくその機会はないと思う。生涯1回だけの告白になる。
 原爆が落ちた1945年、僕は21歳で、陸軍の歩兵見習い士官で久留米にいた。東京の砲兵工場で工員が足りないので、九州から200名ほどの部隊を輸送しろと言う命令に従い、東京に行き、8月6日はその帰りだった。12時過ぎに広島の東側の駅、海田市駅で列車が止まってしまった。おかしいなと思ったが、超満員の列車の乗客は皆降りろと降ろされた。翌日までに久留米の部隊に帰れ、という軍隊の命令があったので、広島を抜けて、西側に行けば、列車があるのではないかと思い、歩いて行こうとした。しかし、憲兵が交通遮断していて、広島方向へは一切人を行かせないということだった。その段階では、一般の人は原爆だなんて全く知らなかった。しかし軍はもう分かっているので、人を広島に行かせないことによって、日本が大変な被害を受けて、危ないという印象を持たせないようにしていた。部隊だったら通すと言うので、同じ汽車に乗り合わせた他の兵隊何人かと部隊を編成したら許可が出た。路上は広島から逃げてくる人達で一杯。救援隊もいない。本当に負傷者以外は誰もいない。広島駅までは、そんなに時間はかからない筈だった。しかし、道路には、電柱が倒れている。電柱には電線がついているから、電線が鉄条網みたいな障害物になって歩けない。下をくぐったり、よけたりして歩いていくから、時間がかかる。防空壕は燃えていて、周辺には逃げるところがない。火の海の中、なかなか道が歩けないので、何時間かかったかわからない。広島駅のそばまで行ったのが、もう午後2時か3時頃だったと思う。僕は広島の町には一度も行ったことがない上に、地図はなく、町の様子は知らない。黒い雨も降っていた。にっちもさっちも行かなくなって、うろうろしていたと言うのが実情。負傷者が大勢いたが、助ける者がいない。僕らが編成した部隊は十名もいなかった。それだけの人数で燃え盛る町の中に入り、大勢の負傷者の救出など到底できない。しかし、助けてくれ、という声に応じて、とりあえず水筒の水をあげたり、水を汲んできてあげたり、できる限りの救援活動をした。負傷者が水をくれって言った話があるでしょう。負傷者や、火傷をして死にかけている人に水を飲ませたら、すぐ死んでしまう、という話を後から聞いたけれど、当時僕はそんな知識もないから、水を飲ませた。救援に行った人達、あるいは家族が被爆した人達の中に、水を与えたことを後悔している人がたくさんいる。でも水を求めて苦しがっている人達の為に水を与えざるを得なかった。

 僕は海田市の方から、線路に沿って歩いたけれど、なかなか広島駅に行けない。爆心地の周辺の大きな川の橋がいくつも落ちて、橋を渡ろうと思っても渡れないから、進んでは又引き返して、どこか橋の渡れる所をうろうろ探し回った。救援しながら、橋を探しながら、広島を抜け出す道を一生懸命探した。町には瀕死の負傷者しかいない。聞いたら、広島を攻撃した飛行機は1機か2機だったから、もし又飛行機が来たら、もう防空壕はないので、どうにもならないから死ぬしかない。だから何とか早く広島を脱出しなければならない。うろうろしながら見た光景は、やはり悲惨なものだった。負傷している人達は、自分の命のことしか考えていない。皆暑いから、暑さを逃れる為に、川へ向かう。階段からぞろぞろ川に降りて行くのだけれど、動けないような負傷者が川に入ったら溺れるのに決まっている。でも、必死に逃げているだけで、そういうことは考えられない。その川では、上流で溺れた人の死体が一杯流れている。それを見ながら、皆どんどん溺れていく。しかし助けてやるにも、もう助けてやる人手がいない。もう一つの避難先はこの辺の低い山だった。何とか火から逃れるために山に登った負傷者も、助けてもらえる訳ではなく、結局山で死んでいく以外になかった。

 結局、夜真っ暗になって、もう半ば諦めながら、うろうろしていたら、8時頃、鉄道線路の北の方で、ボーって汽笛が鳴った。救援列車が西の方から来て、汽笛が聞こえる者は、救援に来たから集まれ、という合図だった。その合図を頼りに、その音のする方向に行ったら、横川という、広島の次の駅。蒸気機関車に貨車が2両ついているだけの列車で、岩国の方に行くから、負傷者は、その貨車に乗り込め、ということだった。列車は何時間か、ボーボー汽笛を鳴らしながら、そこに止まっていた。貨車には負傷者が横になって寝られるようにするため、僕等は占領しないよう、蒸気機関車の後ろの石炭車に乗っていた。この貨車に乗ったのは、何とか駅まで自力で来られた負傷者達。何時間か経って、貨車が一杯になり、動き出したのは、真夜中近かったと思う。汽車が動き出すと、酷い火傷している負傷者は、体が動いて擦れるから、耐えられない痛みに襲われた。痛いので、貨車から乗り出して、落ちてしまう者もいた。落ちたらどうなるかというと、狭い線路なので、転がって、外へ転がればいいけれど、中へ転がったら、列車の車輪にひかれる以外にない。現に貨車がガタン、ガタンとひく音がした。乗り出す人は、たとえその事が分かっていても、もう耐えられなくて逃げ出す。そういう悲惨な状況が、その列車に乗った人達に起こった。

 僕は結局10時間くらい、広島にいたのではないかと思う。この話は、僕等みたいに軍人で、何とかまだ丈夫なままで、西から来た初めての救援列車に辿りつけた人間、または、その列車の関係者しか知らないと思う。