大岩孝平さんの被爆証言(2004年執筆)

大岩孝平さん

 真夏の暑い太陽がぎらぎらと照りつける頃になると、私の心は暗く暗く沈み込んでいく。
 昭和16年12月8日に始まった、太平洋戦争は、日本国民の全てを捲き込みながら、日に日に戦況は日本に不利になってゆき、日本中の都市が爆撃されていった中で、広島市は中国地方の大都市でありながら、一度も爆撃されることはなかった。不思議だなと思う気持もだんだん薄らぎ、鹿児島から従兄弟がわが家に疎開して来ており、広島は安全な場所と錯覚していた。そんなあの日に悲劇が起こった。昭和20年8月6日午前8時15分、一発の原子爆弾が広島市の上空500メートルで炸裂した。旧制中学一年生だった私は、夏休みも無く、軍用道路を造るのに邪魔な建物を取り壊す作業に駆り出されていた。
 あの日は朝から特に暑い日だった。その朝、私は腹の具合が悪く、そのことを母に告げると、母は学校で勉強する訳ではなく、今日は特に暑いから休みなさいと言って、座敷の庭に面した廊下側に布団を敷いてくれた。私はそこに横になり、母は反対側の廊下にいて二人で何か話をしていた。その時、太陽が落ちてきたかと思うほどの強烈な閃光が私達を襲った。朝から照明弾なんておかしいね、と言ったところで、後は何が何だか分からず、しばらく経って気が付いてみると、私は夏掛けを頭からすっぽりかぶって八畳間の反対側の隅にころがっており、母は倒れた襖の下敷きになっていた。あたりを見廻すと、窓ガラスは総て割れ、柱は折れ、天井は下から上に吹き上げられたように湾曲し、屋根瓦は吹き飛ばされたのか空が見えていた。畳の上は割れたガラスの破片で覆われており3センチ位は積っていた。私は夏掛けをかぶったお蔭で腕を三ヶ所ばかり怪我しただけだった。母は倒れた襖がガラスを防いだが、頭から少し血が流れていた。その時、表で遊んでいた従兄弟が飛び込んできた。彼も殆ど火傷もしておらず怪我もしていないように見えた。
奥の部屋にいた祖母も無事だった。私達はお互いの無事を確めあった後、何が起きたのか分らないまま外に出てみた。周りの家も全てわが家と同じように壊れており、近くを走っていた宇品線の線路の向うの小屋が燃えていた。最初は爆弾が我が家を直撃したのかと思ったが、そうではなく、原因が解らず不安を感じながら二時間位経った頃、家から西に500メートル位離れた上が公園になっている比治山の方から異様な人の群れが列をなしてよろよろとよろめきながらやって来た。家の近くまで来たその人達は、焼けていないところに来て安心したのかばたばたと倒れていった。その姿、形は言葉では言い表しようがない程凄まじいものだった。衣服は焼けてぼろぼろになり、殆ど裸の体からは焼け燗れた皮膚がぶら下り、腕は下ろすと体にくっついて痛いのか、丁度幽霊の絵のように前に半分上げた格好で、その腕からも焼けた皮膚がぶら下っていた。顔も真っ黒に焼け、髪は焼け縮れて黒い坊主頭になり、頭から顔が黒い塊りのように見えた。なかには飛び出た眼球を手で押さえている人もいて、とてもこの世の光景とは思えない状況が拡がっていった。お昼頃になると、このような人達で家の周辺の道路は埋め尽くされた。人間の皮膚が焼けた異臭が立ち込め、うめき声がそこここから聞こえ、私はじっとしていられない気持になり、特にひどい火傷の中年の男性を家の玄関に引きずり込んだ。水を欲しがるのでわずかに出ていた水道の水を飲ませると少し落ち着いたのか、後でお礼に来たいから名前と住所を書いてくれと言うので、そんな心配はしなくて良いと断ったが、どうしてもと言ってきかないので紙に書いて手に握らせてあげたところ、安心したのか彼はそれを握りしめて静かに息を引取った。13歳の私にとって、人の死と直面したのはこれが初めてだった。午後になると兵隊さんが救助にやって来たが、彼らもまた衣服は焼け、顔や手足に火傷を負っていた。薬は何も無く、火傷をした人たちの体に油のようなものを塗っていた。此処にいては危ないから逃げたほうが良いと言われ、家に残るという祖母をおいて、母と従兄弟と私の三人は非常持出用の袋を背負って、東に3~4キロ離れた所のブドウ畑に避難した。そこには大勢の人が逃げて来ており、正常な人たちと会えてとても心強かった。
 家から逃げてくる道は火傷をして倒れている人で埋まっており、呻き声、水を欲しがる人、助けを求めて足にすがりつく人、死んで動かなくなった人の間をすり抜け、跨いで、何かしてあげようにも何も出来ず、ただ泣きながら逃げるしかなかった。今想い出すと、胸をかきむしられる思いと、異常な状況下だったとはいえ、よく発狂しなかったものだと思う。避難先のブドウ畑で二日ばかり野宿をした。食べ物は頭の上にぶら下っているブドウしかなく、これを食べて命をつないでいた。
 四日目に家に帰ると父が帰ってきていた。父は被爆の前日から山陰に出張していて難を逃れたが、広島が酷くやられたと聞いて急いで帰ってきたそうだが、途中で汽車が止まり、線路の上を歩いている途中で広島から逃げてくる人達から、中学一年生は全滅したと聞かされ私のことは諦めていたようで、無事な姿を見てとても驚き、喜んでくれた。
 被爆当時無事だった祖母と幼い従兄弟は、抵抗力が弱かったのか、放射能の影響でその年の暮に相次いで亡くなった。
 原爆のことを俗に、ピカドンと言うが、私はピカッと光ったあの強烈な閃光は、はっきりと覚えているが、ドンという音は大きすぎて入間の聴覚の限界を超えていたのか、周りの物が壊れる音と一緒になって分らなかったのか聞いた覚えがなく、キノコ雲も近過ぎてかえって見えなかったのか、見た記憶はない。
 記憶が無いと言えば、被爆当時の記憶は鮮明だが、その後一年間位のことは殆ど何も覚えておらず、ぽっかり穴が空いたようになっている。どうやって生活したのか、僅かに残っていたお米も、ガラスの破片にまみれて食べられず、何を食べていたのか、壊れて空が見え、柱も折れ、窓ガラスも全て割れてしまった家にどうやって住み、誰が修理したのか、学校はどうしていたのかさっぱり覚えがない。自分でも不思議に思っている。
 大勢の人が眼の前で死に、その死体を兵隊さんが近くの学校の校庭に運び、山積みとなった死体に重油をかけて焼いた光景は、少年だった私の脳裏に焼き付いて離れず、今でも眼をつぶると鮮明な映像として記憶に蘇ってくる。何故か解らないが、鮮明な記憶と記憶の抜けた空間が同居している。
 被爆後、59年経った今でも、広島、長崎の悲劇は終っていない。幼い時のケロイドの跡を、ガラスの傷跡を隠しながら、自分は被爆者だと家族にも言えず、子供や孫に影響が出ないかと恐れ悩んでいる人。被爆数十年後に癌に侵され闘病生活を続けている入。志し半ばで原爆症のため無念にも亡くなった人。
 このような、被爆の影響が未だに終らず続いている人が私の周りには大勢おられる。原爆が恐ろしいのは、その時もさる事ながら、放射能の影響が何十年後も、或いは何百年後までも後遺症として残るということなのだ。
 世界中で、特にアメリカで核兵器の小型化や、実用化に向けた動きが進んでいる。日本でも核武装についての論議が出始めているようだが、人類を滅亡に導く核兵器の使用は絶対に許すことは出来ない。
 被爆者の数は年毎に減り、原爆を体験した人はやがていなくなるだろう。然し核兵器は悪魔の兵器だということを、世界中の人々は未来永劫忘れてはならない。