被爆者相談所および法人事務所
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高橋一さんの被爆証言

 陸軍鉄道部隊兵士として従軍、広島市楠町にあった中学校校舎を借りた仮兵舎で被爆。戦後も原爆後遺症病気・生活・心の苦しみが続く。2006年10月8日に亡くなられました。

原爆は、からだ・くらし・心のなかにまで

高橋一さん

 被爆した所は、爆心地から1.8キロメートル、広島市楠木町3丁目で、旧崇徳中学を仮兵舎に使用していた鉄道部隊、線13352部隊の兵舎の2階です。一瞬、気を失って何も記憶がありませんが、木造2階建ての兵舎は倒壊し、2時間後には完全に焼失していました。
 失神していた私を、戦友のだれかが救け出してくれたはずですが、その命の恩人の名はついにわからずじまいです。
 私はその翌日、太田川の土手で意識がもどりましたが、もうろうとして、何が起ったのか、まして原爆が落ちたなんて夢にも思いませんでした。
 広島市の北、安佐郡安村国民学校で傷の手当を受け、治療も不十分なまま、10月末に復員、帰京しました。
 数年ぶりに東京の新橋駅ホームに降り立ったとき、目に入る変りはてた東京の姿には、しばらく立ちつくしてしまいました。戦争が、終わった喜びも、軍隊から解放されたうれしさも、気の抜けた思いで焼跡を眺めていました。
 川口市の妹の家に一時、厄介になることにしました。思った以上にひどい食糧難で空きっ腹を満たすことはとてもできませんでした。28歳の独身者、軍隊で無駄に過ごした数年間を取りもどすため、盗み以外はなんでもするつもりで必死に働きました。数年後、やっと池袋に20数坪の土地と粗末な家を持つことができ、長男も生れ元気に成長し、幸せな将来も感じられる日を迎えることができました。
 被爆後5年ぐらいたったときでした。夏の終わり、体にだるさを感じるようになりましたが、働きすぎぐらいに思っておりました。けれど、だるさは日増しに強く、食欲もだんだんなくなり、2カ月くらいすぎたころには、立っているだけでも辛く、仕事もできず、不安の日々を過ごすようになりました。そして、頭にぼつぼつの吹き出物が出始め、だんだん増えて、ついに頭全面に広がり、そのウミが顔にまで垂れるようになりました。そのかゆさは一通りではないのです。そんな折も折、半年ほど前に、私が銀行の保証人になっていた建築請負業の友人が借金したまま雲隠れしてしまい、私は何回も銀行に支払いながら行方を探す破目に追い込まれました。降って湧いたような思わぬ出来事に、世間知らずの自分を嘆く暇もなく、早急に住み家を売る決心をしました。せめて銀行の取り立てがゆるやかなうちにと思ったのです。
 自分の病気療養と3歳になる息子のためにもと思い、緑の多い練馬区に手ごろな中古の家を見つけて引越しました。この環境のよい所で静かに療養すれば、1、2年もすれば元の身体にと思ったのです。しかし、2年たっても、相変わらず膿と痒さとだるさに悩まされつづけました。小康を得ても、またぶり返す。そのくり返しで気力もなくなる。床に寝つくほどのこともなく、ただぶらぶらと一日を過ごす。世間でいう原爆ぶらぶら病です。見かけより、とっても辛いものです。
 全く収入のない今、家を売って残ったわずかな手持ちも、だんだんと残り少なくなります。家内が生活の足しにと精出す造花の内職の収入ぐらいでは、子どものお菓子代にしかなりません。 そのころ、アメリカから輸入された抗生物質ペニシリン軟膏が、痒み止めにすごく効きました。数カ月使いましたが、当時、とてつもなく高価でした。使いましたその間、痛みからずいぶん解放されましたが、効きめの少なくなったことを理由に、ペニシリンの塗布を中止しました。
 家内は中止の理由がわかっていたようで、悲しげに私の頭を見つめながら何か心に決しているようでした。 練馬に来て1年くらいたったころは、高い薬を買ったゆえか、手持のお金も底が見えてきました。家内も何回か田舎の姉妹からお金を送ってもらっていたようでした。 炭やお米のほか、いろいろまとめ買いをすることもあります。そんなあるとき、家内がぽつりと、
「あなたが被爆者なんて知らなかったわ」
「それに、田舎の親も、とても不服に思っている」
と、もらしました。
 あのときほど、家内の顔がうらめしく、いやみに見えたことはありません。同じ部隊の被爆した戦友が離婚した原因も、どうも結婚前に被爆者だと言わなかったことのようでした。再婚したかどうかは定かではありません。
 しかし、私の家内は今日まで、わがままな自分をよく支えてきてくれました。
 生活の手段は借金に頼るしかない。金利のかからない身内から借りるしかありません。弟にも数回頼んで、その額もかなりになっています。弟は、永福町で小さなブティックの店を営んでいますが、手形を落とす時期にはだいぶ苦労しているのが、なんとなくわかるものです。けれど催促されたことは一度もないだけに、かえって心が痛みます。
「原爆症は伝染しないでしょうね」
「奥さんは一人で苦労をさっているのに、ご主人は毎日ぶらぶらしているが、ほんとうに具合が悪いのかしら」
「働く気がないんじゃないの」
近所の人のひそひそ話が最近はとても気になるようになりました。
 この家を売って、近所のうわさ話と借金を返済し、気分的に楽になれたら、病気の方も少しはよくなるんじゃないのか?家内もそんなふうに考えていたようでした。
 それから半年くらいたって、下石神井の家を売り、弟や、田舎へ、それぞれ少しばかりのお礼の利息をつけ、借金を全部返済しました。家は失いましたが、何かすっきりとした思いです。気のせいか、病気の方も快方に向っているように感じられました。
 あの一発の原子爆弾のため、亡くなった多くの方々はもとより、私のように経済的、肉体的にも悩んでいる人、いつ発病するかの不安の日々を送る人もたくさんいます。それ以後も、3回も似たような症状で病院に通いましたが、1ヶ月ぐらいで治りました。しかし、あのときの二の舞いではと、ほんとうに不安を感じます。原爆とは、気長につき合っていくほかなさそうです。
 憎んでもあまりある原爆です。憎さと恐ろしさを忘れないために、そうさせられるのでしょうか。50数年経った今も、まだ世界は、とくにアメリカ、フランスなどの核保有国は軍拡競争に、新たな国まで参加して…。この軍拡競争にストップをかけるのは、だれよりも、被爆者がやらなければと思います。
 年々高齢化する被爆者の、最後のたたかいになるのかも知れない。生命ある限りがんばりたいと思っています。命をたすけてくれた戦友のためにも、被爆の証言をして核兵器廃絶に少しでも役立てればと思います。