被爆者相談所および法人事務所
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池田智さんの被爆証言 (原爆症認定集団訴訟の法廷にて)

1 私は、1945年、昭和20年8月9日、14歳のときに長崎で被爆しました。爆心地から約1.2キロメートルの長崎市大橋町にあった三菱兵器大橋工場内の建物の4階事務室にて被爆しました。
 赤黄色に光った瞬間、天井が落ちてきて、周りが一瞬にして真っ暗になりました。あまりのことに、しばらく呆然としてしまいました。一瞬の出来事で、いったい何が起こったのか分からず、爆風も爆音も記憶していません。
 本当に真っ暗で、周りに同僚がいるらしかったが、声だけしか聞こえませんでした。その後徐々に明かりが見えてきました。何が起こったのか分からず、必死にその方向にはいつくばって行ったら、ガラスが全て吹き飛んだ窓でした。
 とにかく建物から出なければと思い、窓から非常階段に出て、何とか建物の外に出ました。しかし、外にでたものの、視界はほとんどなく、周りは赤黄色に染まり、どうして良いか分かりませんでした。
 しばらくして、同僚とともに救助活動にあたりましたが、道具がないのでたいしたことはできませんでした。ひどい火傷で顔かたちがほとんど分からない人がたくさんいて、まともな状態の人は一人もいませんでした。「みずをくれ」「痛い」と足を引っ張られることもありました。助けられるものならば助けたかった。でも、薬も何もなく手当も何もできませんでした。

2 私は家族のことが心配になり、爆心地から約600メートルの自宅に戻ろうと考えました。自宅に戻るには爆心地付近を通るしかないのですが、その爆心地方向からは、火傷やけがでひどい状態の人たちがたくさん逃げてくるし、爆心地は真っ赤に染まっていました。私は何とか帰りたかったのですが、同僚にも止められ、やむなく道ノ尾の会社の寮に避難しました。

3 翌10日、私は自宅に戻るため、急いで寮をでました。線路づたいに爆心地付近を通りましたが、がれきの山でした。真っ黒な遺体が至る所にあり、「水をくれ」と足を捕まれたこともありましたが、何もしてやれず、歩き続けるしかありませんでした。

4 家に着いてみると、兄が行方不明で、弟が大火傷を負って国民学校に運ばれていましたが、それ以外の家族4人はほとんど怪我なく元気でした。家族と再会でき、本当にうれしかったことを覚えています。
 しかし、その喜びも長くは続きませんでした。翌11日から14日までのわずかの間に行方不明の兄以外の家族5人全員が次々と亡くなっていきました。前の晩元気だった家族が翌朝には動かない、亡くなるということが続きました。一体何が起きているのかが分かりませんでした。行方不明の兄も含め、わずか5日間で家族が全員いなくなってしまいました。次は私が死ぬのかといつも思っていました。
 私は親戚の人たちと一緒に、家族の遺体、親戚の遺体を来る日も来る日も黙々と焼きました。一緒に焼いていた親戚の人も次々と亡くなり、その親戚の遺体も焼きました。最後には私一人になってしまいました。家族は皆亡くなり、近所の親戚も皆亡くなってしまいました。一人になった私はすがるような思いで、毎日のように行方不明の兄を捜しに行きました。知り合いからは「兄はもう亡くなっているだろう」と何度も聞きましたが、私はあきらめずに探しました。しかし、9月、10月となっても、兄は見つかりませんでした。
 ところが、11月ころ、兄が突然帰ってきたのです。大けがをして、列車で佐賀県に運ばれていたということでした。それはもう、まさかと思うほど、あんなに嬉しかったことはありません。

5 私は、9月ころ、髪の毛が全体的に抜けて薄くなっていることに気づき、そして髪の毛がなかなか伸びてこないこないことにも気づきました。
 怪我の治りも遅く、被爆時に負った頭の傷が、そんなに深い傷ではなかったにも関わらず、化膿してなかなか治らず、治るまで3~4ヶ月もかかりました。爆心地から約1.2キロで被爆し、その後も爆心地付近で生活し、捜索もしていたため、たくさん放射線を浴びていたのだと思います。

6 その後、まだまだ若い31歳ころ、高血圧症との診断を受け、それ以来現在まで高血圧の薬を飲んでいます。昭和55年ころには、肝機能障害があると診断され、昭和60年ころからは心臓病でニトロなどの薬を飲んでいます。
 そして、平成17年1月26日、急性心筋梗塞を発症し、手術を受け、現在も通院中です。

7 私は、次々と亡くなっていった家族と同じく、いつ死ぬのだろうという不安の中で生活してきました。そんななか心筋梗塞になり、原爆症の申請をしたのに、国が私の被爆状況を全く見ずに、機械的な基準だけで認定しなかったことは納得できません。
 国は、大阪、広島、名古屋の判決にしたがい、認定制度を改め、原爆症と認定して欲しいのです。
 再び被爆者を作らないために、国は被爆国として、被爆の実相を世界中に強調し、広めてください。