被爆者相談所および法人事務所
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齊藤泰子さんの証言 (原爆症認定集団訴訟の法廷にて)

齊藤泰子さん

(1) 昭和20年8月6日に広島に原爆が落ちましたが、その当時私は4歳でしたので、母から聞いた被爆状況も交えてお話しします。

(2) 私の自宅は当時爆心地から約1.4キロメートルの広島市比治山町にありました。しかし、私は、姉と妹の2人とともに、母に連れられて8月5日から安佐郡にある親戚の家にいましたので、原爆の直爆には会いませんでした。8月6日の朝、母は、私達子供3人を連れて家に帰ろうとしたところ、急に妹がむずがったため、当初予定していた列車に乗り遅れてしまいました。この列車に乗り遅れたおかげで、原爆の直爆にあわずにすみました。
 その後妹も落ち着いてきたので母は私達を連れて自宅に帰ろうとしましたが、安佐郡落合村にいたときに原爆が投下されました。広島市内の方から大きなキノコ雲がもくもくと出てきたことを覚えています。
 今考えると、妹がむずかったために原爆の直爆にあわずにすんだのですから、何か不思議な力が働いたようにも感じます。

(3) 8月6日の朝、私達が親戚の家を出る前に、その親戚の一人息子の勉ちゃんが1本前の列車に乗って広島市内に行き、原爆の直爆にあいました。勉ちゃんは数日後には見つかり、両親が勉ちゃんを大八車に乗せて連れて帰ってきました。顔は焼けて腐って肉は落ちており、顔の骨がむき出しになり、まるで骸骨のようだったそうです。それに手の指の間からはウジ虫がわいていて、生きているのも不思議なくらいだったそうです。勉ちゃんは8月10日ころなくなりましたが、今も勉ちゃんが言った「おばちゃん、遅れてよかったね」という言葉が母の耳から離れないそうです。

(4) 11日になり、母は、当時2歳の妹を親戚の家に預けて、私と姉の二人を連れて比治山町の自宅に戻りました。広島駅の一駅前の矢賀駅から自宅まで線路沿いに歩いていきました。
 広島市内に入ると、汚物といいますか、ぐちゃぐちゃに腐った焼けた死体がいたるところに盛り上がって積んであったことから、母はそれを子供達に見せたくないと思い、私達に向かって「下を向いて歩きなさい。」と強く言ってきましたので、私はずっと下を見て歩いていました。当時は夏真っ盛りでしたので、腐ってひどい臭いがしてたそうです。
 自宅についてみると、自宅はすでに焼け落ち、瓦礫の山と化していました。母と私と姉は自宅庭に埋めてあった甕を掘り出し、その中に入っていた豆や缶詰や米などを食べたり、近くの破裂した水道管から水を汲んできて飲んだりしていました。また、母を手伝って、瓦礫を掘り返したりもしていました。当時は真夏でしたので、私達は薄着でしたし、もちろん素手で掘り返したりしていましたので、親子3人全身泥まみれ、ほこりまみれになってしまいました。また、私と姉は母に連れられて、八丁堀や中国新聞のあった場所あたりまで行ったこともありました。
 当時は原爆のこと、放射線のことを全く知らなかったこととはいえ、今思うとなんて恐ろしいことをしていたのだろうかと思います。
 このように自宅跡の瓦礫を掘り返したり、甕の中の豆などを食べたり、市内を歩き回ったりしていましたが、16日に一旦親戚の家に戻りました。その後翌年春ころ自宅跡にバラックのようなものを立て、そこでの生活を始めました。

(5) 8月11日に入市してからしばらくして、私と姉に発熱と下痢の症状が出てきました。はじめ母は普通の風邪かと思ったそうですが、9月に入ってもなかなか治らず、むしろ重くなっていきました。その後も約2年間くらい、私と姉はしょっちゅう熱を出したり下痢をしたりしていました。しかも、一度発熱や下痢の症状がでるとなかなか治りませんでした。
 私は、その約2年間、4歳から6歳の間、家の中にいることが多く、外に出るにしても家の周りで遊ぶくらいしかできませんでした。また、5歳くらいのときに、高熱が長期間続き、命が危ぶまれた時期もありました。

(6) 被爆後2年ほど経つと、私と姉の症状は大分軽くなりましたが、私は小学3年生の9歳ころまでは、まだ病弱で体調を崩すことが多く学校を休みがちでした。私は太ることができず、ほとんど骨と皮だけでした。
 しかし、その後は病弱ながらも体調は安定していきました。

(7) しかし、昭和54年に白血球減少症の診断を受け、昭和60年には姉が腎臓癌になり、平成13年には私が直腸癌になってしまいました。しかも、翌14年に直腸癌が再発し、手術で人工肛門になってしまいました。
 そのうえ、私は、この裁判の第1回期日のあった5月27日の直前に骨盤内のリンパ節に癌が転移しているのが見つかりました。しかも制ガン剤が私の体に合わず、何日間も激しい腹痛と下痢と吐き気に苦しみました。
 このような癌について、はじめは放射線の影響とは思いもつかなかったのですが、私の親戚には入市した私と姉以外には癌になった人がおらず、入市しなかった私の妹は癌になっていないことから、私と姉の癌は原爆の影響ではないかと段々思い始めていきました。

(8) 私は平成13年から癌に苦しめられていますが、小学校高学年以降は、多少腸が弱いこと以外は、普通に生活ができていました。しかも、24歳のとき東京に出てからは広島にいたころとは違い、被爆者の「ひ」の字も聞かなくなりました。そのため、原爆のこと、自分が被爆者であることを全く意識しないような生活をしていました。
 しかし、38歳のときに母の勧めで被爆者手帳をとり、その後母とともに被爆者の運動に関わってきています。

(9) 東京に来て被爆者である私でさえ自分が被爆者であることをほとんど意識しないような生活をしていたため、これではよくない、被爆の怖さを広く訴え、いかに原爆が恐ろしいものであるかを広く知ってもらいたいことから、これまで被爆者の運動に関わってきました。

(10) そして、今回集団訴訟の原告になりましたが、この裁判で、私は入市だからといって放射線の影響がないということは間違っている、私のように急性症状が出て苦しんでいる人もいるということを裁判所は分かって頂きたいと思います。他の多くの入市・遠距離被爆者の方々のためにも最後までたたかっていきたいと思います。

(11) 最後に存命中の母のことで言いたいことがあります。このように姉が腎臓癌になり、私も直腸癌になり、しかも今年になってリンパ節に癌が転移してしまったことについて、母はとてもショックを受けています。母は、「あのとき私が娘達を広島市内の自宅まで連れて行かなければ、娘達がこんなにも苦しむこともなかっただろう」と悔やんでいます。
 以上で私の陳述を終わりにします。