中山勇栄さんの被爆証言 (原爆症認定集団訴訟の法廷にて)

第1 被爆前の状況

中山勇栄さん

 1 私は、1930(昭和5)年9月7日、島原半島の雲仙普賢岳の麓で有明海橘湾に面した長崎県小浜町北木指で生まれました。
 私は、子どものころから活発で、走るのも泳ぐのも得意でした。小学校のマラソン大会では1番でしたし、尋常高等小学校の水泳大会でも1番でした。子どものころ、大きな怪我や病気をしたことはありません。

 2 私は、1945(昭和20)年3月、14歳のときに、小浜町立小浜尋常高等小学校を卒業しました。私は、進学したかったのですが、先生から「銃後の守りのため」「お国のために働きなさい」と言われ、三菱の試験を受けさせられました。そして、同年4月から、女子挺身隊の一員として、三菱兵器茂里町工場で、魚雷の仕上工として働き始めました。仕事の内容は、魚雷の表面などにヤスリをかけることでした。
 私は、14歳で実家を離れて三菱兵器浜口寮に入寮したのですが、当時は皆が「お国のため、お国のため」と言っていた時代ですから、私も実家を離れることが特に不安とは思っていませんでした。わが家では、3人の兄のうち2人が出征中で三男は傷痍軍人として実家で養生中でしたが、父は「われ(注:おまえの意)もお国のために行かにゃあいかんたい」と言って、むしろ喜んで私を送り出してくれました。

第2 被爆時の状況

 1 8月9日朝、私は、いつものとおり7時15分ころに寮を出て、7時30分ころには第3仕上工場に出勤しました。8時から仕事にとりかかりましたが、まもなく「ただいま警戒警報中です」との構内放送が流れて、私たちは工場脇の山肌に掘った防空壕に逃げ込みました。そのうち空襲警報も鳴り出しましたが、特に爆弾が落ちてくることもなく、しばらくすると警戒警報も空襲警報も解除になりました。それから皆と一緒に工場に戻ったのですが、突然胃の辺りが締め付けられるように痛み出したため、工場の組長から許可証をもらって、茂里町と目覚町との境にある三菱病院浦上分院に診察してもらいに行きました。工場から分院までは、徒歩で10分くらいだったと思います。

 2 三菱病院浦上分院(爆心地から1.00キロメートル)は、木造2階建てで、バス通りに面していました。バス通りには路面電車も走り、その向こうには機関車の鉄道が併走していました。鉄道の向こうには三菱長崎製鋼所と三菱兵器茂里町工場の広い敷地が広がっていました。バス通りには、いつも大勢の人が歩いていました。
 私は、病院1階の待合室の木のベンチに座って診察の順番を待っていました。待合室に何人くらいの人がいたのかはっきりとは憶えていませんが、10人くらいの人たちが診察を待っていたと思います。私は、何もすることがなかったので足をぶらぶらさせていました。待合室には、ガラス窓があり、私はちょうどその窓に背を向けて座っていました。

 3 突然、稲妻のような光が、ピカッと光りました。音が聞こえたかどうか憶えていませんが、私は近くに爆弾が落ちたと思い、反射的に病院の玄関の方に向かって走り出しました。数メートル逃げたところで、病院がどすんと崩れました。私は一瞬気を失ったと思うのですが、気が付くと周りは真っ暗で、ただ薬とほこりの混じったようなにおいで息がつまりました。私は、何が起こったのか訳が分らず、手足をばたつかせましたが、腹這いの状態で身動きができません。ほとんど身体に痛みを感じてはいませんでしたが、手で背中を触ると、鉄筋のようなものが背中に刺さって出血していました。「お父さん、お母さん」「お父ちゃん、お母ちゃん」「痛い、痛い」「助けて」周りから鳴き声が聞こえていました。しばらくすると、前方の建材が折り重なる向こうに光が透けて見えてきました。辺りが明るくなってくるにしたがって、下駄箱の横にいることが分りました。下駄箱が天井を支えていて、その隙間にいたのです。私は、光の方に進もうとしたのですが、背中に刺さった鉄筋で身体が前に進みません。すると、私の後ろにいた男性が、「はよ出てくれ!なにしよるか!」と言いながら、私をおもいっきり後ろから押しました。私は、痛みに悲鳴をあげながら、外に押し出されました。
 私は、火傷はしていませんでしたが、無数のガラス片・木片が頭、肩、腕、背中、お尻、足などの後半身全体に刺さっていました。また左手の人指し指と中指が、建材の下敷きになったのか、ぐちゃぐちゃになっていました。身体の前半身には、擦り傷などはありましたが、それほど大きな怪我はありませんでした。私は、特に腰が痛くて身動きもできず、病院の玄関前のコンクリート道路の上に、ただ潰れたカエルみたいに腹這いで寝そべっていました。
 顔を上げると、バス通りには、ぴくりとも動かない大勢の人間が倒れていました。馬車に繋がれた馬が立ったまま燃えていました。電信柱が燃え、路面電車も停まったまま燃えていました。目の前にそびえていたはずの三菱製鋼の大きな工場は、屋根がなくなり曲がった鉄骨がむき出しになっていました。背後の病院は燃えてはいませんでしたが、「ああ、このままここで死ぬんだ」と思いました。

 4 どのくらい時間が過ぎたのか、たまたま顔見知りの茂里町工場の社員が通りかかって、トラックの荷台に乗せてくれました。荷台には、他にも怪我人が乗せられており、「大学病院に治療に連れて行ってやる」と言って出発しました。トラックの荷台でも、私は背中が痛くて腹這いに寝ていました。周りは見えなかったのですが、トラックの荷台で揺られながら、「助けて」「水をください」という無数の声を聴きました。荷台に乗った警防団の人が、川は死人でイモを洗うみたいだと言っていました。途中で「大学病院は、ガラン(注:外壁の意)ばっかりで、中は燃えてしもうちょる」ということで、私たちは浦上駅前の疎開地(バス通りと駅の間の民家をつぶした空き地)に掘られた防空壕の中に寝かされました。私は週末に実家に帰るときは浦上駅で切符を買っていたので、その疎開地の防空壕はよく知っていました。防空壕の広さは、幅3メートル、奥行きは4メートルくらいでした。その中の小石のごろごろした上に、私を含めて身動きできない8人が寝かされました。皆若い女性ばかりでした。

 5 9日の晩に、防空壕まで勲章をたくさんつけた海軍の軍人さんが来てくれました。「皆さんのかたきは絶対とってやるから、頑張れ」と言っていました。私は、偉い人に元気づけられて嬉しかったのを憶えています。一緒に来た看護婦さんが、私の頭に赤チンをつけてくれましたが、身体に刺さったガラス片の処置はしてくれませんでした。その後、陸軍の兵隊さんがあめ湯を1本くれました。8人で分けて飲みました。
 翌10日の朝、気がつくと5人が死んでいました。11日の朝に警防団の人たちが5人の遺体を運んで行ってくれるまで、5人の死体とは丸1日一緒でしたが、別に怖いとは思いませんでした。
 残りの3人は、12日の朝まで一緒でしたが、みな「痛い、痛い」と力なくつぶやくことしかできませんでした。私は、防空壕で3日3晩腹這ったままでした。治療も一切受けられず、食べ物を持ってきてくれる人もいませんでした。防空壕の中に溜まった泥水をすすって渇きを何とか癒しました。警防団の人たちが5人の遺体を運んで行くときに布団を持ってきてくれましたが、「白い布団は敵機に分かるけん」といってその布団は使いませんでした。その際、警防団の人に水を汲んできてくださいと頼みましたが、結局水を持ってきてくれませんでした。たまに身内を捜す人が防空壕を覗くので、その人たちにも、水が欲しい、食べ物も欲しいと頼みましたが、水や食べ物を持ってきてくれた人は誰もいませんでした。防空壕にいた3日間、私は身体が痛くて、ちゃんと眠ることもできませんでした。歯茎から出血し、3日間で10本くらいの歯が抜けたと記憶しています。

 6 12日の朝、私たち3人は、トラックに乗せられて、伊良林国民学校に運ばれました。伊良林国民学校に着くと、体育館の前の校庭に2カ所の穴を掘って、それぞれ20人ずつくらいの遺体を並べて油をかけて焼いていました。私は、「もう死ぬんだ、このまま焼かれるんだ」と思いました。穴の横を通り過ぎて体育館の中に入ると、衣類が焼けこげて体に張り付いた人、皮膚が焼けただれたり黒こげになったほとんど全裸のような人たちで体育館はあふれかえっていました。その中に立つお医者さんが、指揮棒のようなものを持って、警防団に指図していました。すぐに、体育館1階の左側にはもう死んでいる人、右側には死にかかっている人、2階には助かりそうな人というふうに振り分けているのが分りました。私の番になり、お医者さんが、私を指して「2階」と言ったときに、「助かる見込みがあるんだ」とほっとしたのを憶えています。
 私は、2階に運ばれ、お医者さんから治療を受けました。治療といっても、髪の上から頭の後ろに赤チンを塗ってもらっただけです。お昼になると、梅干し1個とおかゆを食べさせてもらいました。トイレにも行けないので,警防団の人に抱えてもらってトイレに行きました。どこの誰だったのか、名前も聞きませんでしたが、お礼が言いたいとずっと思っています。

 7 私は伊良林国民学校には1日しかいませんでした。私の身体には「小浜」と書いた札が貼ってあったのですが、人を捜しに伊良林国民学校に来ていた小浜尋常高等小学校の先生がその札を見て、「小浜の誰か?」と聞いてきました。私が「木指の本多(旧姓)です」と答えると、「本多なにか?名前は?」と重ねて聞いてきました。「勇栄です」と答えると、「おまえか!父ちゃん母ちゃんに連絡とって迎えに来させるから、力を落とさず頑張っとけよ」と言ってくれました。
 翌13日の朝、両親と妹(4歳)が、小浜町の製塩工場警防団の救援トラックに便乗させてもらって迎えに来てくれました。「勇栄、勇栄」と私を捜す父たちの声が聞こえました。私は精一杯の声で返事をしますが、父たちは気付いてくれません。しばらくして私のそばを父が通りかかったときに力の限り「父ちゃん、父ちゃん」と呼びました。父は変わり果てた私を見て、「勇栄か、勇栄か」と何度も確認しました。そして、水筒のお茶を飲ませてくれた後に、濡らしたタオルでそっと顔を拭いてくれました。そして、トラックに乗って小浜町に帰り、実家に寄らずにそのまま実家に近い松島病院に入院しました。

第3 被爆直後の急性症状及びその後の健康状態など

 1 私は、松島病院への入院直後から41、2度の高熱が約1週間続き、嘔吐、吐血、下痢、下血を繰り返しました。食欲などあろうはずもなく、そのうち身体に紫斑も出てきました。先生が、白血球が増えすぎてダメだと言っていたのを記憶しています。髪の毛が全部抜け落ちて丸坊主になってしまいました(その後も髪がごそっと抜けて丸坊主になることが2回ありました。私の髪が生えそろったのは、被爆から約5年経ってからです。しかも、真っ白な細い髪でした。)。歯茎からも出血が続いて歯も全部抜けてしまい、私は14歳で総入れ歯になってしまいました。そのころには初潮をむかえていましたが、被爆後は17歳まで生理は止まったままでした。

 2 私は、入院したその日に全身のガラス片の摘出手術を受けました。さらにその年の暮れころに2度目のガラス片の摘出手術を行い、被爆から3年くらい経ったころに3度目のガラスの摘出手術を行いました。その間も、全身のいたるところから自然にガラス片が出てきていました。ガラス片が出てこなくなったのは、被爆から約5年経ってからです。
 今回申請した頭の左後ろの有痛性瘢痕(傷の長さ約2センチメートル、硬結の直径約5ミリメートル)は、ガラス片を摘出した手術の跡です。同じ場所の手術を繰り返し、また自然にガラス片が出てきた所です。まだガラスの破片があるかどうかは分かりませんが、現在も触るとキリキリと痛み、四六時中頭が重たい状態です。

 3 私の最初の入院は約半年間でしたが、10日くらいで再入院になりました。ガラス片が出てきた後の傷口が化膿して、傷がいつまで経っても治らなかったからです。膿が治まったと思っても、すぐにかゆくなって触っているうちにまた皮膚が破けて膿が出るということを繰り返しました。特に膝の傷がひどかったです。そのようなことが約5年間続き、その間入退院を繰り返しました。

 4 私の腰の辺りの脊椎は複雑骨折をしていましたが、特に治療らしい治療もせずにそのまま癒着してしまいました。現在も腰は痛みますが、お医者さんからは、もう手術は無理だと言われています。
 また、30年ほど前から両膝の関節が変形し、歩行が困難になりました。昨年6月に左膝、11月に右膝の手術をしました。手術直後は調子良かったのですが、今はまた杖をつかないと歩けない状態です。
 そのほか、白内障の手術も2回しました。1回目は1997(平成9)年ころだと記憶しています。2回目は2004(平成16)年11月ころです。
 肺炎でも2回入院しています。1回目は1958(昭和33)年ころ、2回目は2001(平成13)年ころだと記憶しています。
 現在、お医者さんからは、肝臓や腎臓も悪いと言われています。

 5 私は、26歳のときに縁あって見合い相手と結婚できました。ただ、私が被爆したことは言えませんでした。しかし、流産を2回、死産を2回繰り返し、不思議がる夫に堪えきれずに打ち明けました。夫は、今更そんなことを言われても仕方がないと言っていました。その後、2人の男の子を授かることができました。しかし、32歳で次男(1963(昭和38)年1月9日生まれ)を生んでから月経が止まり、約半年間どうしたのだろうかと思っていた矢先、朝どうしても起きられないことから夫が布団をめくると大量に出血していました。有家の磯野産婦人科に入院し原爆病院に移されましたが、そのとき医者から卵巣破裂と言われたと記憶しています。

 6 私は、被爆後、1975(昭和50)年ころまで、身体がつらくて一切仕事に出られませんでした。1975(昭和50)年ころから約10年間ワカメの袋詰めの仕事に就きましたが、座ったままの仕事で楽だったから何とか勤まりました。
 この60年間というもの、腰や膝が痛く、頭も重たくて、疲れやすかったため、家事も満足にこなせませんでした。子供を背負うと、その晩腰が痛くて眠れなくなってしまうので、子供を背負ったこともほとんどありません。

第4 入市被曝した父の急性症状と胃ガンによる死

 1 父は、原爆投下時には、長崎市から直線距離で約30キロメートル離れた小浜町にいたのですが、翌10日、三男の兄及び姉と一緒に、私を捜しに長崎に来て茂里町工場の辺りを探し回っていたそうです。11日には、「長崎には行かんがよかげな。毒のまわってしもうとる」「ピカドンに遭うた者は長崎から運び出されとる」と聞いて、父たちは、11日は大村や諫早周辺を、12日は佐世保周辺を捜し回ったそうです。

 2 その父は、私を迎えに来た直後から具合が悪くなり、私と一緒に枕を並べて入院することになりました。
 父は、口から血を吐き、下血をし、紫斑が出て、髪も抜けてしまいました。一旦は元気になりましたが、1951(昭和26)年、59歳のときに胃ガンで亡くなりました。

 3 父と一緒に私を捜し回った三男の兄と姉には、急性症状は出ていないと思います。しかし、2人とも胃ガンで亡くなりました。

 4 その他の身内でガンになった人は聞いたことがありません。母は老衰で85歳で亡くなっていますし、長男は70代半ばで亡くなったものの、次男は88歳の現在も元気です。