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田﨑豊子さん(被爆二世) 「被爆を語らなかった母の思いを受け継いで」

田﨑豊子さん

 母は10歳のときに、広島の爆心地から約1キロの場所で被爆しました。その後の人生に影響があることを心配し、あの日のことを話そうとはしませんでしたが、過去の思いと未来への希望を、母と一緒に過ごした日々の中、私も受けとめて生きてきました。

 原爆が投下される直前に、市内の建物撤去作業に加わっていた自分の母親にお弁当を届け、母はホッと安心し、のどが渇いたので、空き家の水道の蛇口に口をつけた時、ピカーと、ものすごい光線が目に入り、気を失ったそうです。体の上には重い柱がかぶさり、身動きできなく、男の人が持ち上げて引き出してくれたそうです。その後、母は市電の鉄橋を渡り、線路の枕木が燃えている横を、夢中に走って逃げたそうです。
私が台所の炊事場で母と肩を並べ、手伝いをしている時、ふと母が口にしました。その鉄橋の上から見えた光景です。火傷を負った人々が水を求めて川の中に身を投げ、息絶えてしまい、パンパンに張ったお腹を上にして浮かんでいる多くの姿が見えたと、悲しい声で話してくれました。

 もう一つ母が語ってくれたことは、原爆投下後、はじめて過ごした夜のことです。爆心地から約4キロ離れた家も、天井が半分落ちて床の畳にはガラスが突き刺さり居場所もないので、妹弟と山の竹藪に避難したそうです。そこには火傷を負った幼児の兄弟も逃げて来ました。幼児は「水をちょうだい。水をちょうだい」と泣き続け、火傷には水を飲ませないほうがいいと母親は、「朝になったら飲ませて上げる」と、繰り返し言っていたそうです。明け方、泣き声が聞こえなくなり静かになった時には、幼児は息絶えたそうです。水を飲ませて上げられない親の切ない気持ち。苦しい時には、母は必ず、あの幼児の鳴き声を思い出してしまい、胸が痛むと言っていました。飲み水を絶対に粗末にせず、母は生涯、水を大切に保管し使っていました。

 長い間、母は慢性肝機能障害を患い、2010年に肝臓胆管がんで亡くなりました。私の娘が生まれた9カ月後のことでした。「まだ生きたい。まだやることがいっぱいあるのに。」と病床で泣いていた母の姿を忘れることができません。その一つが、母の病気を原爆症として認定してもらうことでした。2006年に国(厚生労働省)に申請をしましたが、却下されてしまい、多くの被爆者のように、病気と闘いながら裁判で争う手段しかありませんでした。国に対して裁判をすることが、いかに大変か、引き継いだ私も実感しました。4年が経った昨年、やっと国は、母を苦しめた病気を原爆症として認定しました。これは我が国が解決しなければいけない問題ですが、今の日本政府が被爆者を置き去りにしている実態を知っていただきたいと思います。原爆が放出した放射線には、しきい値がない、非がん疾患でも低線量からリスクが増加するなど、国際学術組織は、科学的根拠を証明している中、唯一の被爆国の日本はそれを隠し続けています。

 母は両親を原爆で亡くし、被爆者として強く生きたように、私も母親となった今、ふたたび同じ過ちを起こさない、人道的な権利を最優先する世界を必ず実現したいと願っています。2012年より、東京在住の被爆二世たちも交流を再開しました。他には相談しづらい、二世・三世への放射線の影響と健康への悩み、広島・長崎で被爆した家族の想いを継承して行きたい、共通するものがあります。ニューヨークに同行できない、二世それぞれの想いも聞いていただこうと思います。母が体験したような苦しみは、世界の誰にも経験してほしくはありません。核兵器と共存はできません。どうか、被爆者とその家族の願いに賛同いただき、活動を共にして下さい。