被爆者相談所および法人事務所
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河合正江さんの被爆証言 (原爆症認定集団訴訟の法廷にて)

河合正江さん

1 1945年8月当時、私は19歳でした。私の自宅は広島市皆実町3丁目にありました。家族は、父、母、私、妹二人、弟一人の6人でしたが、父は仕事の関係で、また弟は学童疎開でこの家に住んでいませんでした。

2 私が被爆した場所は、宇品の船舶司令部経理部の外庭です。当時私は徴用されて毎日自宅から宇品の船舶司令部まで通っていました。
 8月6日の朝、経理部の外庭で朝礼があり、そのまま竹槍訓練をしている時でした。突然体の真正面から遮るものの無い状態で原爆の閃光を受け、耳にバーンという衝撃を感じて耳が聞こえないような状態になり、同時に一瞬体が飛ばされました。この場所の爆心地からの距離は約4キロメートルです。

3 私は自宅や家族が心配でしたが、すぐ市内に入ることができず、その日は船舶司令部に泊まるしかないと思っていると、市内から、被災して大変な姿になった人々が次々とやってきました。私たちは徹夜でこの人たちの救援にあたりました。皮膚が焼けただれ血だらけの人たちを抱きかかえ、宇品から似島に向かう船に乗せました。似島に行く体力も無い人々は軍の建物に収容しましたが、すぐいっぱいになって凱旋館の床にねかせるしかありませんでした。しかし、大部分の人たちが夜のうちに亡くなりました。

4 私は、一睡もしないで救援作業をした後、翌朝、軍の救援トラックに便乗して皆実町の自宅に向かいました。御幸橋の手前でトラックを降り、そこから歩いてゆきました。倒壊した自宅の前で、奇跡的に母と下の妹に再会することができました。母は顔から胸にかけてひどい火傷を負っていました。

5 すぐ下の妹は、私立高等女学校1年生で、産業奨励館付近の建物疎開に動員されたまま行方不明だったので、私はそのまますぐ妹を探しに向かいました。現在の平和大橋周辺に行くと、元安川はたくさんの遺体であふれていました。私は川に入ってもんぺの柄を頼りに妹を捜索しましたが妹はみつかりません。私は、翌日も、翠町の避難先から宇品の船舶司令部に行き、そこから軍のトラックに乗せてもらって途中で降りて、焦土と化した広島の町を歩き回りました。うわさを頼りに、鯛尾にも行きましたが同姓同名の人違いでした。
 こうして、8月7日から15日まで、被爆後の惨状を目の当たりにしながら広島中を歩き回りました。この間、軍の供出したおにぎりを食べ、市内各地で破裂した水道管から吹き出す水を飲みました。
 しかし、結局妹を見つけることはできませんでした。

6 ところが、終戦の日の8月15日、突然に発熱と激しい嘔吐におそわれ、口の中から喉全体がはれてものが飲み込めなくなりました。翠町から船舶司令部に運ばれましたが、一ヶ月にわたって、血性下痢、高熱、吐き気・嘔吐、歯ぎん出血(歯茎からの出血)、極端な倦怠感に苦しみました。全身に紫斑が現れ、白目も黄色くなる黄疸がでて生理もしばらく止まりました。

7 一ヶ月後にやっと熱がさがりましたが、その後もひどい倦怠感で「ぶらぶら病」と言われる状態が続きました。1948年に結婚して上京しましたが、それ以後も今日まで、普通では考えられないような病気の連続の生活を強いられました。

  • 1949年(昭和24年)、嘔吐や貧血で医者にみてもらったところ、白血球が異常に少ないと診断された。
  • 1955年(昭和30年)、前年から貧血がひどく、慶応大学病院に一ヶ月入院。輸血以外に治療法が無いと言われて輸血を受ける。肋骨を削って栄養剤を入れた。しかし、湿疹がでたために輸血は中止し、貧血のまま退院。
  • 1978年、肝障害を指摘され東京女子医大病院に入院。肝生検の結果慢性肝炎(非活動期)と診断される(GOT,GPTが120から70で退院)。
  • 1986年3月、杏林大学病院に入院、腹腔鏡検査を受け、肝硬変と診断され、その後杏林大学病院にて治療を継続。
  • 1999年12月、突然の高熱と大量下血で救急車で入院し危篤状態となりました。原因は血小板減少。血小板減少の原因として、「もともと原爆による骨髄機能の予備能低下」と指摘された。
  • 同年、肝腫瘍の合併も診断され、現在まで、外来通院と入院による治療を繰り返している。

8 私は、2002年12月、肝硬変症(C型)、肝腫瘍を理由に原爆症認定の申請をしましたが、2003年7月23日付で「原爆の放射線によるものとはいえない」との理由で却下されました。この裁判でも、国は、私が受けた放射線の量は、レントゲン検査による被爆量にも達しないわずかなものだと主張しているそうです。
 しかし、被爆する前の私は、いたって健康でした。証拠として提出する写真を見てください。私立山中高等女学校時代には、バレーボール部で活躍し、ブラスバンドでホルンを吹くなどして、戦時中ながら元気一杯の学生生活を送っていました。私は長命の家系で、父は104歳まで生き、原爆で大火傷を負った母も、88歳まで生きました。下の妹も弟も、みな元気です。写真の中の私には、戦争が終った後には、希望に満ちた人生が待っていたはずです。ところが親族の中で私だけが、病気、病気の苦しい人生を強いられました。その理由は、8月6日当日血まみれになって救援活動をしたり、7日から15日にかけて広島中を歩いて回ったこと以外に考えれらません。
 私の病気で心配をかけどおしだった夫も昨年突然先立ってしまいました。私は現在癌が進行し、正直言って裁判が終わるまで体が持つかどうか心配です。私が裁判をすることで、子どもや孫が差別を受けないか心配です。それでも、私が裁判に加わり、今回証言をする決意をしたのは、私の苦しみが原爆と関係無いというのはどうしても納得できないし、私たちが体験し見たことを法廷で証言して、国の姿勢をあらためてもらわなければ、行方不明のままの妹もうかばれないと思うからです。

 一日も早く、国の基準が間違っていることをはっきりさせ、私を含めたすべての被爆者を救済する判決を出してください。