蒔添安雄さん 「私の被爆体験記」
私は、長崎の爆心地から5.5キロメートルと云われるところで、4歳の時被爆しました。
被爆体験と云っても、爆心地からいくらか距離があったこと、年齢もまだ4歳だったことから、近距離での悲惨な状況というのは分かりませんし、距離・年齢相応の、また私の周りの、後で聞いた状況も含めた内容になります。
被爆したところは長崎県西彼杵郡時津村(現時津町)元村郷というところです。爆心地から北の方角で、爆心地との間にはいくつかの小さな山々があり、大村湾に面しています。
その日は晴れていました。親から言いつけられて、姉二人兄1人と私(10人兄弟の末っ子)の4人で田んぼへ「フ」(と呼んでいた稲の害虫『カメムシ』)を取りに出かけました。どのくらい立ってからか飛行機の音が聞こえてくるみたいだから帰ろうと言って、4人で家へ帰る途中被爆しました。ちょうど近所の墓地の横を長崎市の方を向いて歩いている時で、強い閃光を感じて墓地の「タマヤ」(石碑を覆う小さな家の形をしたもの)の中に、姉たちの後を夢中で泣きながら逃げ込みました。私は姉の腕の中に護られていましたが、すぐ来たという爆風の記憶はぼんやりとしかありません。姉は、私を放って自分だけ先に逃げて悪かったと今でも詫びます。
家に帰ったら爆風で障子やふすまは吹っ飛び、麦わら屋根の天井などの煤は畳一面に落ち散らばってひどい状態でした。
父母もまた畑から帰って来て、母は「閃光が走ったとき自分の周りに虹ができて狙われたと思った」「爆風で杉の木が地を這うように見えた」と驚いた様子で話しました。家族は幸いにも怪我・火傷を負った者はいませんでした。
その後の昼食の記憶はありません。時津旧街道の見えるところに出て見たら、長崎方面からボロを着た[そのように見えた]人達が三々五々無言で元気なく歩いてきていました。その人達の行き先に付いて行ったら、それらの人達は田崎医院[今思えば]に入り、畳の広間に列を作りほんとうにゆっくりゆっくり座っていきました。今思えば、負傷・火傷を負ってさぞ痛かったことでしょう。
あの日のこの時間の体験について、同級生から後に聞いた話を思い出します。時津の本通り(今の国道)近くの同級生は「負傷・火傷した人達をトラックに載せて北の方へ向かっているのを見た」と。学校近くの交差点に近い同級生は、「負傷・火傷を負った人達をトラックから降ろすところを見た」。「中には死んでいるような人もいた」とか。
同級生の中には顔に盛り上がった黒いケロイドのある女子転校生もいました。近所には長崎の兵器工場で死亡した女性もいました。
父について姉たちから後で聞いたことです。父は大工と百姓をしていましたが、あの翌日からか救援に何日間も大橋付近など、爆心地付近に救援に通っていました。姉たちは、父が出会った酷い死体や悲惨な状況について、聞いたようですが、私は覚えていません。
ただ、小学生の頃牛車で長崎へ一緒に行った時、その帰りに回り道をして片足鳥居のところに寄り、爆風でこのようになったと話してくれました。原爆の威力を具体的な物で見せておこうと思ったのでしょうか。その他製鋼所の赤錆びの曲がりくねった鉄骨や長崎大学病院の曲がった煙突も見ました。原爆ってすごかったのだと思いました。その父は1967年に膵臓癌で死亡しました。同じ元村郷に嫁いだ姉の義父の兄さんは、父と同じ大橋付近の救援に行って作業の隊長を務めたそうですが、乳癌で死亡しました。長兄の義父も元村郷に住んでいて、癌で死亡しました。
同じ時津村の浜田郷(爆心地から約6キロメートル)で被爆した長姉の次男(二世)は40歳代の若さで肺癌に罹り死亡、その次男が最期に「先に逝く」と話したと説明してくれていたその兄長男(二世)もその後50歳代で胃癌に罹り死亡しました。長姉は癌に罹ってはいませんが、入退院を繰り返しながらも、今なんとか健在です。二世の甥が二人も癌で死亡するとはやはり原爆の影響でしょうか。同級生も癌で死亡しています。核兵器の恐ろしさは私たちを不安に陥れています。核兵器廃絶しかありません。