田邉俊三郎さん 「NPT再検討会議にあたって訴えたいこと」

田邉俊三郎さん

 皆さん、こんにちは。お元気ですか。私は今から65年前、広島で20歳のとき2.1キロメートルの所で被爆した、サバイバーの田邉俊三郎です。
 被爆後65年経って、平和を愛する皆さんとお会いできて嬉しく思います。
また、皆様の素晴らしい協力と援助により、被爆の実相と訴えを皆様にお話しする機会を設けて下さいましたことを感謝致します。

 1945年8月6日8時15分、人間の頭上に初めて原子爆弾が広島に落とされました。
 原子爆弾は地上580メートルの所で炸裂しました。地表でも3,000度から5,000度の熱線を出したといわれています。
この瓦はその熱で表面が溶けたのです。真下の人は溶けて消えてしまいました。近くの人はこの絵のように、目玉が蟹や蝦のように飛び出して、指先は肉が溶け、骨が残りました。体は真っ黒に焼けてしまいました。

 中心から離れた所にいた人はこの絵のように火傷をしました。皮膚がぼろきれのように垂れ下がり、痛さにうめきながら手を前に出して、幽霊のようにして逃げました。力尽きて息切れ、倒れ「水を、水を」と求めました。生き地獄とはこのことです。
 私も火傷しましたが、薬を作り、顔にべたべた塗って痛みを抑えながら、水を飲める人々に焼け跡の中の噴き出ている台所の水を茶碗に汲んで飲ませてあげました。皆「ゴクゴク」飲みました。しかしその後、静かになりました。死んだのです。「体が3分の1以上火傷している人に水を飲ませると死ぬぞ」と言われていました。でも可哀想なので水をあげました。死に水になりました。

 3,000度の熱で広島の家は瞬時に焼け、秒速500メートルの爆風で吹き飛び、人々は焼け出され、広島市内を流れる大田川には火傷の痛さを癒そうと、この絵のように川の中に入った人々は溺死して、瀬戸内海の塩でふやけて白豚のように白くなり膨れて、何千と数え切れない溺死体が潮の千満で広島から離れがたいかのように、行ったり戻ったりして漂っていました 焼け野原になった広島市内にはこの絵のように焼け死体が至る所に散乱していました。母と赤ちゃんの焼け死体がありました。赤ちゃんの頭を可哀想にと撫でましたら、ペシャッと崩れて灰になりました。私は「南無阿弥陀仏」と唱えて逃げるように立ち去りました。

 また、被爆者は65年経った今日まで、放射能で苦しみ続けています。
 私は白血球減少症・肝臓障害・貧血・慢性気管支喘息・不整脈・大腸癌・食道炎・前立腺肥大症・膝腰脊椎関節炎・脳梗塞・高血圧症等で病院通い中です。毎日、このように12種類の薬を飲んでいます。
 広島で5万人・長崎で2万人が瞬時に殺され死にました。その年の暮れまでに広島で14万人、長崎で7万人が死にました。そして放射能障害で毎年8,000人が亡くなっています。こんな悪魔の原爆がまだ世界中に2万発以上もあるのです。もし今後使われたら、地球上の生物は消えて地球は死の世界になります。こんな核爆弾は一刻も早くなくさねばなりません。

 平和を愛する皆さん、全世界に声高く叫び、訴えましょう。この崇高な叫びは神の声となり、核兵器廃絶は実現するでしょう。この時こそ、青い地球は残り、平和と繁栄の鐘は鳴り続けるでしょう。有難うございました。そして、この崇高な平和の闘いに対し、後世の子どもたちはどんなにか敬虔な感謝をもって歴史上に褒め称えるでしょう。ノーモア・ヒロシマ、ノーモア・ナガサキ・ノーモア・ウォー。世論に勝る兵器はない。平和の勝利が訪れるでしょう。