関口智恵子さんの証言 (原爆症認定集団訴訟の法廷にて)

関口智恵子さん

(1) 私は当時12歳でした。自宅は広島の河原町にあり祖母と父母、姉、私、10歳と4歳と乳飲み子の3人の弟の8人家族でした。
 8月6日、私は爆心地から2キロ離れた広島市立第二国民学校の校舎内で被爆しました。2階の教室で友達と話をしているとき、後ろから突然強い閃光を感じ、全身が炎に包まれたような気がしました。私の上に戸が覆い被さり、その上を窓ガラスの破片が飛び散りました。それが収まってから校庭に降りると、校舎は崩れており、周りの民家が燃えていました。
 防空壕に避難すると、ひどい火傷や怪我をした生徒が何人もいました。しばらく中にいましたが、次第に家族のことが心配になり、外に出ました。家に帰ろうとしましたが、先生に火災が起こっているからと止められ、家族の迎えが待ちきれず外で立っていました。すると、大量の黒い雨が降り出し、私は頭からずぶぬれになり、着ていた白のブラウスが真っ黒になってしまいました。
 家にも帰れず家族の迎えもないため、私は、母に何かあったら避難しろと言われていた五日市を目指しました。6日の夜は草津付近で友達とともに野宿をして、7日に五日市の避難所に着きました。ここでやっと、私は祖母と母、4歳である2番目の弟と再会しました。でも、母から、乳飲み子である3番目の弟は家の下敷きになって死んだことを聞きました。

(2) 8月8日、私と母と2番目の弟は市内に戻りました。行方が分からない、家の周りで遊んでいた1番目の弟と、護国神社の向かいの陸軍病院で炊事の仕事をしていた父と、宇品の女学校に向かう途中だった姉を捜すためです。
 まず、自宅に行きました。爆心地から1キロの場所です。自宅は全焼しており、母から亡くなったと聞いていた3番目の弟の遺骨を見つけました。焼け跡から探し出したボウルに入れて持ち帰りました。しかし、1番目の弟は見つかりませんでした。
 自宅の後、爆心地付近の陸軍病院、護国神社付近を歩きました。南の宇品の方にも行きました。翌日も捜し続けました。しかし、結局父や姉の行方も分かりませんでした。

(3) 父や姉や弟を捜して歩き回っている途中、背中におぶっていた2番目の弟たくおが、喉が渇いて「ねえちゃん、おぶほしい」と繰り返していました。もともと少し足が不自由で、忙しい母の代わりに私が面倒を見ていた愛おしい弟です。私は「あーちゃん」と呼んでかわいがっていました。よく近くの神社に連れて行って2人で遊んでいました。
 でも、避難所であーちゃんに再会したときには、全身火傷で包帯だらけでした。陸軍病院から可部に向かう途中の小学校で軍医には「大丈夫だよ、よくなるよ、よくなるよ」と言われましたが、あーちゃんは私の背中でとても苦しそうでした。「おぶちょうだい」と言うのに辺りにお水はなく、「うちに帰ったらみかんの缶詰をあげるから」と答えることしかできませんでした。飲ませてやりたかった。
 10日の朝起きると、あーちゃんは息を引き取っていました。私と母は2人であーちゃんを焼いてお骨を持って帰りました。

(4) 私たちは8月15日に島根の親戚に家に避難しましたが、18日に祖母は亡くなりました。看病する母の脇にいて祖母がうわごとのように繰り返していた言葉をはっきりと覚えています。「私たちは何も悪いことしていないのに、どうしてこういう目にあわなきゃいけないの」
 母も胸を火傷していて重傷でした。髪の毛が抜けたり歯茎から出血したりしていました。寝たきりになってからは、戦争に出掛けた2人の弟の名前を呼び続けていました。そして、8月31日に亡くなりました。

(5) 家族で生き残ったのは私1人となりました。被爆する前のある日、夜中に突然目が覚めて、家族が爆撃にあって自分1人が生き残ったらどうしようととても不安になったことがあります。それが現実となりました。
 私自身も、体のだるさや熱や下痢、吐き気が翌年の春頃まで続きました。そして、家族を失いながらも、気を張って生きてきました。でも、おととしの秋頃に卵巣ガンを発症し、その後、入退院を繰り返しながら化学療法を受けています。抗ガン剤投与の副作用で髪の毛が抜けているため帽子は手放せません。

(6) 私たちが原爆に遭ったのはまぎれもない事実です。原爆は私の家族を全て奪い、現在でも私自身の体をむしばみ私を苦しめ続けています。このような私の悲しみを理解してください。そして、国はきちんと責任を認めて補償してください。お願いします。