竹内勇さんの被爆証言 (原爆症認定集団訴訟の法廷にて) 

1 被爆状況

(1) 私は、1940(昭和15)年12月15日、21歳の時、甲種合格し現役兵として中国に渡り、1943(昭和18)年8月14日、宇品船舶司令部付整備教育隊に転属しました。この教育隊は、宇品市営桟橋より連絡船で10分位の鯛尾にあり、私は、ベニヤ板の小型肉弾型の船艇を研究・製作していました。
 私の被爆者健康手帳には4キロと記載されています。

(2) 1945(昭和20)年8月6日午前8時15分、私は、下士官として教育隊の朝の点呼のため、隊員を前にして爆心地に向かって立っていました。
 突然、電気溶接のときに3000度くらいで鉄を溶かすときに発するアーク線が破裂したような強烈な光が真一直線に横に広がり、私の目を射ちました。その閃光はとても直視することの出来ないもので、かつて経験したことのない痛光を受けました。その閃光は横一直線に走った後、瞬時に白い球となり、そして見る間にメラメラと赤い炎を交えた真っ白で巨大な「キノコ雲」ができあがりました。そして、次の瞬、間猛烈な爆発音と爆風に襲われたのです。

(3) 私は、すぐそばに爆弾が落ちたのだと思い、仲間全員と共に兵舎裏の防空壕に逃げこみました。爆風は砂塵と一緒に兵舎を襲い、ガラス戸が数枚とばされました。
 一体何が起きたのか、誰にもわからず、「ガスタンクに爆弾が落ちたのかも知れない。」とか「爆薬庫が爆発した」などの憶測が飛び交いました。
 その後も、異常な「キノコ雲」は何百メートルもの高さに達し、更に拡大し、数時間過ぎても消えることはありませんでした。
 雲の下の広島がこれ程かと思うほど、本当によく見え、横川駅の北の方まで火災が発生し、広島全市の壊滅状態であることが手に取るように見えました。

(4) そうしているうちに、船舶司令部から非常呼集がかかりました。兵隊は大発(大型上陸用舟艇)に乗り宇品港へ向かうことになったのですが、私は本部付きだったため鯛尾で待機することになりました。
 間もなく大発は、続々と被災者を乗せて帰って来ました。
 私は、桟橋から降りた人達を見て驚きました。みんな、髪は焼け、棒立ちで全身灰色、下着はボロ布同様で、体は赤く焼けただれ、両手を幽霊のように前に痛そうにダランと突き出しているのです。
 そして、みんな、うす目で私の方を見ているのです。その目は私に対し「兵隊さん、何で早く助けに来てくれなかったの?」と云っているようで、私は、まともに彼らを見ることができませんでした。

(5) 私は、部下の兵隊が被災者の方の手当をすることを監督する立場におかれたため、被災者の方を直接手当することはありませんでした。しかし、船から一人で陸に上がれない方の手をとったり、肩を貸したり、誘導のために被災者の方の多くの体に触れました。
 そんな中、「痛いよー、痛いよー。」「水、頂戴。」「お願い、水頂戴。」などと、口々に叫ぶ被災者の方を、ただただ見ていることしかできませんでした。みんな、熱風を吸い込んで口の中がカラカラに乾き切ったため、あるいは火傷のため、とにかく水が欲しいのです。しかし、衛生兵は「水を飲ませたら死ぬから駄目だ。」と非情な言葉を言うのみで、私はそれを傍観するしかなく、口惜しい気持ちで一杯でした。
 無情にも被災者の寝台は、単に床に毛布一枚を敷いただけで、私は、「被災者は背中の傷が痛かろうに。何とか出来ないものか。」と気が気ではありませんでした。また、不思議なことに被災者の方は、寝台に横になっても手を幽霊のように上げたままなのです。「疲れるでしょうから、手を下げた方が楽じゃないですか。」といっても「水ちょうだい。水ちょうだい。」というだけでした。少しは楽になるかもと思い、寝室にひもを張ってみたりもしたのですが、無駄でした。
 亡くなった後も、腕や手は硬直したままで、菰にくるむために延ばしてあげなければなりませんでした。

(6) 市街地から帰ってきた兵隊達から街の様子を聞きました。広島市内は建物が一部を除いて倒壊し、火災が発生していること。被災者は川や海に逃げ、火傷の身を沈めたこと。その人々が、我先にと船につかまり「兵隊さん、助けて」と叫んで手を伸ばしたものの、船に上げることは、とても困難であったということでした。

(7) 収容した人々の寝室には各自の名前が書かれ、私も収容者の年齢や住所も記録しました。その中には東京での「無法松の一生」などの公演を観たことのあった移動慰問団「桜隊」隊長の丸山定夫さんもいました。痛さに黙々と堪えていました。

(8) 被災者の衣服の白い部分が焼けずに残っていたことから、「白い敷布などを用意し、空襲警報が発せられたら頭から被って伏せ、目、耳などを押さえているように。」との軍令も出されました。そして、その後間もなくの8月15日、日本は降伏し、終戦となったのです。なぜ、日本はもっと早く降伏しなかったのでしょうか。ドイツなどは、早々に降伏をしてその後の戦争犠牲者が増えるのを防ぎました。
 町中には「広島は今後数十年は草木も生えない。」、「3日以内に入市した人は1年以内に死ぬ。」などの噂が流れていました。

(9) 私たちは、収容された患者には出来得る限りの手当をしましたが、医師もおらず、薬もないため、収容した被災者は、次々と死んでいきました。隣に並んで横になっていました被災者が、「兵隊さん、隣の人が死んだみたい。」と教えてくれるような状況でした。
 部下の兵隊たちは、寝台から歯を抜くように死者を移動させ、菰で包み、空き地に積み上げました。死体は、菰に包まれたまま積み上げられ、10体ほどになると、似島という近くの島に船で搬送されました。
 被災者を助けられなかった私の悔しさは例えようもありません。今でも「水を飲ませることも出来ず申し訳なかった。」とい気持ちで一杯です。

(10) 私は、放射能の危険性についての知識は全く持っていませんでした。そのため、その危険性を全く認識することなく、軍の許可を得て広島の知人の様子をみるために、8日に連絡船に乗って宇品から上陸し、入市しました。知人というのは、桟橋から船に乗るまでの時間よく休ませてもらったお寺の夫婦とお嬢さんのことです。特にお嬢さんは美人で、下士官仲間の憧れの人で、私も大変憧れ、気になっていた人だったのです。
 めざす宇品のお寺に着いたところ、建物は全壊していましたが、墓石は殆ど倒れていませんでした。疎開先が書かれた立て札が立ててあり、そこに書かれてあった広島駅の裏の北陵の家に向かおうとしました。その時、ふと見ると石塀が倒れて、その根元深くのところに赤い色の服を着た女性が見えたのです。すぐに助けなければと思い、壊れた石塀など動かしてみましたが、びくともしませんでした。付近を見渡すと、その近くに5、6人の人が腕を組んで頭を下にしており、相談事でもしているようでした。一緒に救助をしてもらおうと「おい、おい」と声をかけ、そのうちの1人をゆすってみたのですが、だれも応えてくれません。確かめてみると、防火用水を囲んで、全員亡くなっていました。防火用水の中の水を競って飲んでいましたところ命尽きてしまったのでしょうか。仕方なく、石塀の根元の女性をそのままにして、市電の線路に沿って出発しました。比治山、段原、荒神橋を通って目的の広島駅の裏に急いだのです。
 市電通りは片付けられていて歩きやすかったのですが、両側はガレキの山でした。広島駅の北側に出ましたが、殆どの家が倒壊もしくは焼失していました。ようやくお寺の家族の避難先の民家を見つけ、寺のお嬢さんと会うことが出来ました。しかし、お嬢さんは大変具合が悪く、話しかけても私の方を見るだけで、ただ苦しそうに呻いていました。看護する人に挨拶し、私にできたことは、お嬢さんの全快を祈ることだけでした。

(11) その後、よく下士官仲間と使っていた己斐駅前の旅館のことも気になっていましたので、ふたたび市電の線路沿いに、紙屋町、相生橋を通って、己斐方面に向かいました。この旅館には魚などを持っていって、よく料理をしてもらっていたのです。
 旅館までにつく途中、市電や消防車、普通自動車などが赤く焼けたまま放置されていました。乗客などは助からなかったと思われ、ガランと物体だけが残されていました。
 めざした旅館は無事で、安心してその日は部隊に帰りました。帰路は、相生橋、紙屋町、小町、市役所、御幸橋から宇品に通じる市電の線路沿いを歩きましたが、途中の爆心地の原爆ドーム(元商工会議所)前で、大きな馬と人間の焼死体を見たときは本当に驚きました。女性だったと思われましたが、全身は真っ赤で、髪は棒立ちになっており、目は突き出て黒目だけが光っていました。お尻からは、腸が全部渦を巻いて飛び出していました。パンパンに膨らんだ腸は全部で3~4メートルはあったと思います。薄くなった腸の皮から中が透けて見えましたが、その中には何も入っていませんでした。両手もちりぢりに焼け落ち、本当に見るも無残な情景でした。
 後日、この状況を描いた絵などを、私は、NHKが2002年に募集した「被爆者の描いた絵」として応募しました。

(12) 8月9日に再び市内に向かいました。どの辺か、記憶がはっきりしませんが、おそらく、連兵場の近くの校庭のようなところに、ペシャンコにつぶれ、焼けながらも、きれいに並んだ弁当箱の集団がありました。学生が弁当を置いて整列でもしていたのでしょうか。
 あちらこちらに、遺体を焼いた後のお骨がチョークで番号が書かれた瓦に乗せて置かれてあり、名前の判る人や、特徴のある人については、その旨が、大きな板に貼られた紙に記載されて、引取りを待っていました。氏名のわからないお骨は引き取られることもなく捨てられていました。また、そのそばには未だ焼却してない遺体が並べられてありました。そうした場所には県外から身寄りの人を探しにきた人々が群がっていました。ときどき、このときの情景を、今でも夢にみることがあります。

(13) このように、私は8月8、9日の2日間、惨状の広島の被爆中心地を歩き回りました。その後は鯛尾で被災者の看護に当たる部下を指導し、8月15日の終戦を迎えました。

(14) 原爆症認定申請書を提出した際、市内に入市したのは18日と記入されていましたが、これは8日の間違いです。

2 その後の状況

(1) 9月6日に復員命令が下り、多くの戦友とも惜別の別れとなり、東京に帰りましたが、この間、私は身体がだるく、立っているのも、歩くのもやっと、ふらふらの状態で、「どうしてこんなにふらふらなんだろうな。みんなも歩いてるんだから自分も歩かなきゃ。」と思いながら歩きました。ときどき歯茎からの出血もありましたが、当時は「虫歯のせいかな」などと思っていました。
 宇品から貨車に乗って上野まで着く間、途中の駅で、被爆者に負けないくらい真っ黒に汚れた顔をしたたくさんの戦争孤児たちが、「兵隊さん、食べ物をちょうだい!」と取り囲むのに圧倒され、「これが戦争というものか。」と思いました。持っている物といっても、東京まで必要な食糧しかなく、何もあげることはできませんでした。

(2) 中野の沼袋の実家付近まで上野から歩いてたどり着きましたが、空襲で家の付近は焼け野原になっており、戻っても我が家がどこだかわからなくなっていました。実家のあったと思われる場所で「竹内だ。おーい、俺の家はどこだー」と大きな声で叫んでみると、なんと「おー、ここだー」という声が聞こえたのです。父の声でした。

(3) その後は、「生きていくためには、何でもやらなければ」と千葉の戦友から魚を分けてもらい、闇売買を始めたのですが、性に合わず、いろいろと職を変えることになりました。しかし、その間も、身体がだるくて仕方がない状態が続きました。
 父は元大工だったのですが、バラックの家を建て始めていました。できあがりが近づいたころ、私は表札を買い、父に渡しました。父が門に、その表札を打ち付けようとしたところ、突然、後ろに倒れました。脳溢血を起こしており、結局、その後意識が戻ることはなく、私が復員したちょうど1年後である9月6日、父は55歳の若さで亡くなりました。
 残された家族は母と弟と私の3人で、弟は7歳・小学1年生でした。私は、「一家を支えなければならない。」という、ずっしりとした生計の重さを感じ、「働かねば」と思いつつも、体がだるくて仕方がない状態がなおも続きました。

(4) 帰郷後2カ月経った日に、東大病院で検査した際、「白血球が24,000もあり異常だ。」との診断を受けていました。しかし、入院をしていられる経済的な状況ではなく、栄養剤、ビタミン剤を買って、紛らわせながら働かざるを得ませんでした。
 東大病院からは、「時々来院して検査するように。」といわれたものの、脊髄から血液をとることはあまりに痛く、二度と行くことはありませんでした。
 しかし、その3年後、再度倦怠感が強く出てきたため、今度は近くの新宿にある都立大久保病院で診察を受けたところ、白血球が1,500と診断され、「これ以上低くなったら入院です。」と告げられました。特別な治療はしませんでしたが、身体がだるく、倦怠感は依然として続いていました。

(5) その後は、個人タクシーの免許を取得して働いたものの、無理がたたり、1961(昭和36)年、変形性脊椎性に罹り、1カ月間、入院しました。その後も現在まで痛みはとれず、後述する鳥海ペインクリニックに通っています。

(6) さらに、1998(平成10)年12月10日、板橋大和病院で前立腺癌と告知され、それ以降、体調が悪い状態が続いています。現在も、同病院でホルモン療法を受け、ホルモン注射を三ヶ月に一回射ち、癌を抑えているのですが、最近のマーカー検査によるとPSAの値が上がって悪化が進み、心配しています。

(7) また、2003(平成15)年の12月に自転車に乗っていたところ転倒して、ハンドルを右脇腹に強打したときの傷の治療のために、2004(平成16)年1月に東京医大で診断にいったところ、帯状疱疹にかかっていることがわかり、皮膚科に入院しました。薬を入れるために性器に管を通していなければならないのが大変苦痛で、自分でそれを引き抜いて出血をしてしまったこともありました。同年2月から麻酔科に通院となりました。
現在は、あまりに痛みがひどいので、痛みを止めることを中心に治療している野方にある鳥海ペインクリニックで痛みをとる治療を受けていますが、依然として腰回りが痛く、全く元気が出ません。

(8) また、2004(平成16)年12月19日の夕方には、便器いっぱいの真っ赤な血尿が出て、大変ショックでした。板橋大和病院で診察を受け、大腸の検査をしましたが、一過性のものであったということがわかりました。
 体重については、一昨年から昨年にかけ、10キログラムもやせてしまい、現在55キログラムです。体重とともに気力も落ちて、何もする気力がありません。

3 私の前立腺癌は原爆放射能に起因するものです。

(1) 前述のように私は被爆し、鯛尾で被災者の救護にあたり、その後の8月8日及び9日には爆心地に入市したので、私はこの間に相当量の放射線を浴びたのだと確信しています。

(2) 私は、たとえ戦争とはいえ、非戦闘員までも虐殺、負傷してしまう大量破壊兵器を使用させた行為は断じて許すことができません。
 また、日本軍の中国への侵略、そしてハワイ真珠湾攻撃から始まったこの戦争は、すでに東京大空襲や、ガタルカナル島での玉砕などの時点で、敗戦は必至でした。また、沖縄の玉砕でも決定的になっていました。日本政府は、この時点で降伏すべきだったのです。そうしていれば、8月6日に広島に、8月9日に長崎に、原爆が投下されることはなかったでしょう。
 どうしてこのような戦争をしたのか?その責任は、いったいどうなっているのか?日本政府には、国民に償う義務があると思うのです。
 戦後60年を迎えても、広島・長崎の被爆者は、当時受けた放射能のために様々な病気に苦しんでいるのです。軍人や、その遺族は恩給や遺族年金を受けていますが、私たちが病気になっても「爆心地から○キロ」との線引きをされ、それ以遠で被爆した人の補償はできないと言い張るのです。あまりにバカバカしくて話にもなりません。