被爆者相談所および法人事務所
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東條明子さん 「証言レポート」

東條明子さん

1、1945年3月10日の真夜中、眼が覚めると私は東京大空襲の真っ只中にいました。家中の窓や戸は開け放たれ、B29が鳥の大群のように轟音を響かせて飛んでおり、雨あられのように焼夷弾を落とす絨緞爆撃をしておりました。東京中の空が真っ赤に染まり、一夜にして10万人が死亡しました。10歳の私を頭に7歳、3歳、1歳の4人の子どもを母はとても守れないと、急遽広島への疎開を決意しました。着いた処は広島市城が目の前の知人の家、その後、転々とし、8月6日は4キロメートル離れた祇園にいました。

2、8月6日の朝、祇園国民学校は登校日で、晴れ渡った夏空の下、近所の子ども達と集団登校しました。木造2階建の校舎の2階で教室の掃除が終わり、ガラス窓を拭いていた子が「あっ、B29!」と叫びました。かけ寄って空を見上げると、青い空に銀色の翼が光り、スーと何かが糸を引いて落ちたようでした。次の瞬間、太陽が爆発したかのような白い光線が教室中を走り、とっさに床に倒れ伏しました。東京で何度か空襲をくぐり抜けてきたけれど、こんな閃光は見たことがない、死を覚悟した次の瞬間、体験したことがない轟音、爆風、窓ガラスが砕けて空中を走り、天井も壁も床板もすべてが剥がれ、飛び散り、私達の上に瓦礫の山となって覆いかぶさってきました。何が起こったのか訳も分からずじっとしていると、階下から先生の呼ぶ声が聞こえ、皆もぞもぞと起き上がり、瓦礫に埋まった階段を辿って校庭に出ました。すぐに帰宅を命じられ、私は妹と友人を探し、3人で家に向かいました。空はどんよりと蒸し暑く、気がつくと私の耳から血が流れていました。家に着くと農家の表座敷は天井も畳も剥がれ、庭に何もかも放り出されていました。私は子ども達の子守をしながら、家から見える校舎の真後ろに巨大な恐竜のように空全体にそそり立ったきのこ雲に驚き、吸い寄せられるように見入っていました。夕立のような黒い雨が降ってきましたが、家にも入れずきのこ雲を見続けていました。

3、昼近くなると市内の学徒動員の中学生、女学生や勤労奉仕に出ていた人々が、ひどい火傷やガラス片が背中につき刺さったまま家にたどりついた人や避難してくる人が続き、大人達は右往左往の大混乱だったと思います。
 私は子ども達を見守りながら、立ち上るきのこ雲から目が離せなかったのです。きのこ雲は夜になるとまっ暗な闇の中に、真っ赤になって刻々と変化しつつ燃え続けました。朝になると灰色になり、夜は真紅に、三日三晩燃え続け、四日目頃から形が崩れやがて消えていきました。校舎のシルエットの上空に立ちはだかる真っ赤なきのこ雲の映像は、フィルムのようにくっきりと私の脳裏に記録され、現在も消えることはありません。それは14万人近い人々の生命が、原爆で焼き殺されていった、未曾有のいのちの燃え尽きる炎の色だったことを後に知りました。そのトラウマで私の精神はずっと病んでいました。私の心と体は病み、一児の出産後は二度の手術と貧血で(20代~50代)ぼろぼろになり、それでも生き残ることができたのは、今思うと不可思議なことでした。

4、私の苦しみを救ったのは、仏教の教えでした。今、世界の困難を救うのは仏陀の教えの中にあります。
(1)すべてが杖罰に慄き、すべてが死を怖れる。
我が身に引き比べて、殺す勿れ、殺さしむる勿れ。『発句経』
(2)実に、怨みが怨みによって息む(やむ)ことは、この世では決してない。怨みを捨ててこそ息む。これは変わらぬ心理である。『発句経』
(3)「兵戈無用」「仏説無量寿経」
 平和な世界に軍隊と武器は、必要がなくなります。
 私たちは今、多くのいのちに生かされて生きています。戦争の犠牲になった被爆者とすべての戦没者のいのちに報いるためにも、核兵器と戦争の無い世界にしなくては、地球は永遠に平和にならないと思います。仏陀の真理の言葉を全世界で実現させましょう。合掌