木村徳子さん 「私の被爆体験記」

木村徳子さん

 私は日本から参りました木村徳子です。長崎で被爆しました。

 1945年8月、当時私は爆心地から3.6キロメートルの長崎市の繁華街に住んでいました。年齢は10歳、小学校4年生の夏休みでした。父は2年前に召集令状が来て陸軍に入隊。家族は母と私・弟妹の3人兄弟、15歳になる叔母の5人でした。
8月9日はいつもと変わらない朝でしたが、一旦出された空襲警報が解除となり、ホッとして私たち姉弟は自宅の2階で人形遊びをしていました。グーンと微かに爆音を聞きアラッと高窓を見上げた途端、ピカーッとオレンジ色の周りが白い炎のように光った火の玉を見ました。
 咄嗟に2階から階段を駆け下り、玄関で靴を履いていると、隣との境のレンガ壁が背中に倒れてきました。その時は「隣に爆弾が落ちた!」と思い、床下にある地下の防空壕に飛び込みました。真っ暗な中、遠くで地鳴りのような音と地震のような揺れを感じながら壕内はしんと静まり返り私は震えていました。しばらくすると通りから警防団員の声で、より安全な所に行くように指示をされ、近くの公園の防空壕に向かいました。外に出ると昼間なのに町は夕方のように薄暗くなっていました。
 午後になりムッとする暑さの中、防空壕の北の方から灰色の塊が近づいてくるのが見えました。逃げてきた人々でした。顔は真っ赤にはれあがり、髪の毛は灰色にぼうぼうと立ち上がり、やけどのため服の布と腕の皮膚がドロドロと溶けあって手を前にさしのばしながら防空壕に倒れこんできました。水をほしがる人に飲ませると動かなくなりました。
 我が家は瓦、壁、ガラスが床に散らばり、今にも壊れそうでした。夜になると爆心地の浦上方面の空は真っ赤に輝いて燃えていました。朝まで燃え続けました。
 夜が明けるとともに焼け爛れた遺体が次々に運ばれてきて、来る日も来る日も町の空き地で焼きました。長崎の町は戦争が終わっても人を焼くにおいが満ちていました。

 原爆は一瞬の出来事でした。しかし、その時被爆した人は、その人が亡くなるまで一生原爆から離れられません。
 戦後の10年は私の10代の年月。中学の頃、昨日まで元気で仲良く遊んだ友達が突然学校を休んだので、見舞いに行くと青白い顔をして寝ていました。体のあちこちから出血し3日ぐらいで原爆症で亡くなってしまいました。周りの知人、友人が亡くなるたびに「次に死ぬのは私ではないか?」と不安な毎日でした。
 大人になり、結婚して子供ができたとき、生まれてくる子にどんな影響があるのか、産むか産まないか大変悩みました。幸いにも健康な子供が授かりました。それまで自ら被爆の話をすることはありませんでしたが、ある時長女が小学校の授業で原爆投下を学んだのか「ママ、もしかして私、被爆2世?」と質問してきました。それは当然のことなのに、全身に冷や水を浴びせられたような衝撃が走り、うろたえました。私は「そうよ」と答え、子供はうなずいただけでした。
 私が皆さんに被爆の話をすることは、子供のプライバシーをも暴露することです。そのために彼女たちが言われのない差別を受けるのではないかと今でも苦しみ恐れながら、それでも核兵器廃絶を願って、被爆の体験をお話ししています。
 2009年、被爆後60年以上もたって子供ががんを患いました。私だったらよかったのに、代わってやりたいと自分を責めました。懸命に看病し、治りました。翌年、今度は私が胃がんになり、「ああやっぱり、被爆したからがんになるのだ」と思いました。
 原爆は私1代で終わらない。負の遺産として次の世代、その次の世代へと受け継がれるかもしれない。心身共に一生続くその不安、恐ろしさ。
 核兵器の本当の恐ろしさ、ほかの爆弾との違いはここにあります。

 私たちのような辛い思いを世界中の人に体験してほしくない。「ふたたび被爆者をつくらないために」私たちは長年、核廃絶を訴え、運動を続けています。被爆者に与えられた命の時間は間もなく終わるでしょう。1日も早く核兵器のない世界を実現するために、今回のNPT再検討会議で皆さんと協力して核兵器廃絶を強く訴えていきたいと思います。