堀場和子さん 「わたしの被爆体験」

堀場和子さん

 わたしが被爆したのは3歳のときです。
 ですから、わたしは、被爆したときの記憶は、まったくありません。そのわたしがみなさんの前で、お話をしなければならないと思ったのは、多くの被爆者が年をとり、被爆者の思いや願いを話せなくなっているからです。

 わたしが被爆したのは、長崎の爆心地から3.6キロメートルの自宅でした。長崎市に原爆を落としたボックス・カーというB29が狙ったのは、わが家から500メートルくらい離れた常盤橋だったとのことですから、もし、あの日、広島のように長崎市の上空が晴れていたら、わたしの命はなかったと思います。

 それでも、わが家は、ガラス戸や建具などが吹き飛び、家の中はめちゃくちゃだったそうです。
 外出していた父以外の家族とわたしは、すぐに家の中にあった防空壕に入り、その後、近くにある崇福寺というお寺の防空壕に避難しました。

 父は、長崎の爆心地から3.3キロメートルで被爆し、その後は、死体の処理にあたっていました。川には座ったままの姿で亡くなっている人がたくさんいたそうです。きっと熱くて水に飛び込んだとのことです。
 父は死体の処理にあたったためか、髪の毛が抜け体調を崩し痩せてしまいましたが回復し、わたしの家族は、全員、元気に生活していました。
 しかし、1964(昭和39)年3月、それまで元気だった妹が、出かけようとしていたとき、倒れました。貧血を起こしたと聞きましたが、検査を受けると肺に近い場所に悪性の腫瘍ができているとのことでした。
 妹は、その後、わずか、3カ月で亡くなりました。被爆したときは、まだ8カ月の赤ちゃん、命を絶たれたのは、19歳、短期大学の学生でした。
 妹が倒れたのは、日本舞踊の初めての発表会の練習をしている時でした。小さい頃から上の姉のように日本舞踊を習いたがっていた妹が、初めて舞台で踊れる日でした。しかし妹は、一度も舞台に立つことができずに、亡くなりました。もっともっとたくさんやりたいことがあったと思うと、残念でなりませんでした。

 妹が亡くなったとき、長崎大学の先生が「明らかに原爆が原因だから解剖させてほしい」と言われました。父は、「被爆者の研究に役立つなら」と承諾しました。
 「成人式を迎える前に死んでしまうとは」と、父母は悲しんで、振り袖の晴れ着を着させて、妹を葬りました。これが父母にとって若くして死んでいった娘への気持ちだったと思います。
 綺麗な盛り、19歳で亡くなった娘の死体を解剖させることについて、父や母はどう思ったのでしょうか。そして、どんな思いで振り袖の着物を着せたのでしょうか。
 今まで、妹の無念さと父や母の苦しみを思うと、このことをなかなか人前で話すことはできませんでした。しかし昨年亡くなって50年が過ぎました。やっと妹の事を話す気持ちになりました。

 わたしは、妹を殺した原爆をどうしても許すことはできません。19歳という若さで命を絶たれた妹の思いを背負って、そして、わたしの前で亡くなっていった被爆者の方々の平和と核兵器廃絶を願う思いを抱いて、運動を続けていきたいと思います。