金子宏正さんの被爆証言

 神戸大空襲で一家被災して長崎に転居。海星中学在学中の14歳のとき、大浦天主堂付近で被爆。戦後、上京し千葉県中学校教師を勤め退職。2004年8月に亡くなられました。

かあちゃんは死なんけん

金子宏正さん

 毎日、毎日、朝夕、空襲が激しく、警報のサイレンが鳴るたびに恐怖におののいたものです。「命を大切にしろ」「空襲警報が鳴ったら防空壕に逃げろ」母の口ぐせになっていました。
 当時、両親と兄弟六人の私たちは、神戸に住んでいました。私は、学徒動員で工場に通っていました。昭和20年5月23日、神戸は焼夷弾と爆弾の大空襲でほとんどが焼け野原になりました。
 私のすぐ下の弟は、爆弾の破片やガラス片を背中に受けましたが、神戸では、なかなか手術ができないので、思い切って長崎の大学病院にいる伯父に頼むことになりました。父と私とで、けがの弟を長崎まで連れていきました。 長崎に来てみると、B29は飛来しますが、空襲らしいものはほとんど受けていませんでした。焼け野原の神戸にくらべて、まるで天国のような感じに思えました。
 弟を長崎医大に入院させると、父と私は、家が焼かれ壕の生活をしている神戸へもどりましたが、母も長崎のようすを聞いて、どうせ死ぬのなら故郷の長崎へ帰ろうということになり、6月の下旬ごろ、家族全員で長崎へ引き揚げました。
 7月末には、医大に入院していた弟も退院してきましたが、家族の人数が多いので、三軒の親戚に別々に住むことになりました。8月6日「広島に新型爆弾投下、被害甚大のニュースが伝わりましたが、あまり詳しくはわかりませんでした。
 そして、3日後の8月9日、午前11時2分。あの忌まわしい原爆が長崎に投下されました。
 私は、中学校転校の手続き中で、登校は九月からということで、動員もはずされていました。 そのとき、私はちょうど大浦天主堂あたりを、戸町の方向に歩いていました。爆心地から約4キロでしょうか。どんより曇っていた空のかなたに、かすかに爆音が聞こえました。警報は出ていなかったように思います。
 とつぜん、まるで照明弾でも落としたように光りました。眼が痛い。次の瞬間、ものすごい爆風。耳をつんざく爆発音。何がなんだかわからない。すぐそばに大型爆弾が落ちだと思った。
 ふとわれにかえった私は、ものかげで目を押さえうずくまっている。一瞬しーんと静まりかえり、あたり一面が暗くなっていく。不気味で、恐ろしい。けれど助かったのだ。「神様っ」心のなかでつぶやく。
 しばらく過ぎたころ、長崎駅の方から、衣服のぼろぼろになった人、火傷のひどい人、けがをしている人びとがどんどん逃げてきます。「長崎駅の方は、全滅で行けない」「浦上の方はどうなっているかわからない」「その先の方では、大勢の人が死んでいる」「電車が焼けている」人びとが口々に訴えます。呆然とするばかりでしたが、とにかく土井首の伯母の家に帰りました。 午後からは、黒い雨が降ってきました。ひどく寒かったことを覚えています。医大勤めの伯父からは何の連絡もありません。
 次の日、伯父の安否を確かめに病院へ行くことにしました。けれど、長崎駅までたどりつくのが精いっぱいで、それから先はとても行けそうにありません。 まるで地獄です。駅前には、市電の焼けただれた鉄骨。人間の黒焦げになった無数のかたまり。馬車の馬の火ぶくれ。列車の残骸。焼け野原になった町々。伯父はもうだめだと思い、引き返しました。
 ところが、その日の夜半になって、伯父はぼろぼろ服で帰ってきました。伯父は、9日の朝、病院から急に島原に出張してほしいと言われ出かけ、助かったのだそうです。連絡するにも、電話も交通機関もだめですから、自分の力でたどりつくより方法がなかったのです。
 私は母のことが心配で、次の日、小瀬戸町に連絡をとることにしました。母はおばと県庁に用があって出かけ、大波止あたりで被爆し、右の首から肩にかけて焼けただれ、火ぶくれになっていました。 「たいしたことはなか。みんな死なんで会えてよかったばい」みんなほっとしましたが、3年後にはこの傷が母の命取りになりました。
 このあとしばらく、私は消防団の人たちと救護活動で走りまわりました。12日には、伯父に頼まれて長崎医大まで出かけました。寝ていた医局長のお嬢さんを介抱しながら、西山町の自宅までリヤカーで運んであげました。途中グラマン戦闘機の低空掃射を受け、とても恐ろしかったことを思い出します。 お嬢さんは下痢がひどく、伯母からあずかっていた衣類を何枚も使いました。やっと西山町の家に着くと、お嬢さんとお母さんが涙を流して何度も何度もお礼を言われました。後でわかったことですが、お嬢さんは3日後の8月15日、終戦の日に息を引き取られだそうです。
 浦上川一帯は、悪臭、死体を焼く臭いがただよい、生き残った人たちがうごめいていました。長崎県庁は一カ月ぐらい燃えていました。電柱も、まるで線香のように燃えていました。
 救護の手伝いは気持ちが悪く、はじめは雑炊ものどに通らないほどたいへんでしたが、何日かたつうちに少しずつ慣れてきました。しかし、二度とあのような手伝いはできません。
 ねずみ島にバラックの住まいを建て、やっと家族がそろいました。でも、母の首の傷はひどくなっていきました。私たちも下痢がつづいたり、髪の毛が抜けたりがしばらくつづきました。
 昭和23年10月3日、日曜日。私の勤務先の運動会の日でした。母は寝床から、かすれ声をふりしぼって、口ぐせになっていた言葉をくりかえしました。
「みんな生きていてよかった」
「母ちゃんもまだ死ねない。これから母ちゃんもよくなる。日本もよくなる」
「宏正、口が裂けても原爆に遭ったことは人に言うな」
「よかか、できれば東京の伯父さんば頼って行け。母ちゃんは死なんけん。はよ学校さ行け」
目を大きく見開き、首には大きなタオルを巻いていました。
「母ちゃんは、まだ死なんけん」
「ピカのことは、だれにも言うな」
 今でも母ちゃんのうめき声と姿が私の心に残っています。母は42歳で亡くなりました。