被爆者相談所および法人事務所
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仲伏幸子さん 「生きて核兵器の無い世界を見届けたい!」

仲伏幸子さん

 私は幼稚園児(5歳9カ月)の時に、爆心地から1.7キロメートルの地点にあった我が家の直ぐ前の幼稚園で被爆しました。幼稚園も家も倒壊し、跡形もなく焼失してしまったのに、あの日、背中に窓ガラスの破片が突き刺さっただけで済んだのは、いくつかの幸運が重なったからだと思われます。その一つは、私が園の庭ではなく屋内にいて直接閃光を浴びなかったこと、二つ目は、建物が倒壊、焼失する前に外に出ることができたこと(あの日壊れた建物の下敷きとなって圧死したり、逃げ出すことが出来ないで建物と共に焼死した人はその日の死者の半数に近い48%に上り、祖母も倒れたわが家の下敷きになっていたのを祖父によって、ようやく助け出されたのでした)、三つ目は、迫ってくる火を逃れて郊外へ逃げる途中、降りだした黒い雨(放射能雨)を軒下で雨宿りして濡れるのを避けた―など、これらの偶然が重なって命が助かったと言えるようです。

 私の母は、近所の入達と建物の取り壊し作業(爆撃による延焼を防ぐため)に出かけ、爆心地に近い街(推定900メートル)で被爆し、全身に熱射を浴びましたが、重症の身にも拘らずわが家まで辿り着き、祖父から私が無事であることを聞くと、安堵して倒れ込み、そのまま動けなくなったそうです。意識の薄くなった母を、祖父の引く大八車(荷物運搬用の二輸車)に乗せて郊外に逃げたのですが、その途中で見た光景は、まるで生き地獄の有様で、幼い私にも忘れることが出来ないほど強烈なものでした。道路には、全身灰をかぶったように汚れ、頭髪の逆立った人や、火傷して皮膚が垂れ下がり、男女の区別もつかないような人達が、力ない足取りでゾロゾロと郊外へと歩いていたのです。私達は二つの川に架かる橋を渡って逃げたのですが、も川岸には焼けた体に水を求めて人が群渉り、まるで海水浴のようにごった返していました。既に川に流されている人もありましたが、あの日、川に飛び込んでそのまま行方が知れなくなった人は数知れません(当日の死者で家族が死に目に会えた人は4.1%しかなく、遺体を確認できた人は22.9%、遺骨で確認できた人が27.7%、その他半数近くの人が行方不明のままなのです)。橋の上では、それ以上歩けなくなった人達がうずくまったり倒れていて、逃げていく人達に手を伸ばして「水を!水を!」と乞いせがんでいました。そんな極限状態の人にも救いの手を伸ばすことなく逃げる―。それが戦争という非常時の非情の実態でした。母は臨時に造られた収容所に運ばれましたが、重症の体に何の手当ても施されず、幼い私を傍に置いたまま2日後に亡くなりました。31歳でした。

 あの日、広島に落とされた原子爆弾は、たった一発でその日のうちに10万人以上の命を奪いましたが、その5ヵ月後(年末)には死者の数は14万人となり、5年後には20万人に、6年後には24万7千人と、その数は増え続けるばかりで、今なお闘病生活を余儀なくされている人もいます(当日の残虐性はいうまでもありませんが、後々増え続ける放射線被害の執拗な残酷さこそが、まさに核兵器が《非人道的兵器》といわれる所以なのでしょう)。
 あれから間もなく65年が経過しますが、その間、私達被爆者は生き残った者の使命として「再び被爆者をつくらない為に」と、核兵器の廃絶を呼びかけ続けてきました。それにも拘らず、核保有国も保有数も増え続け、今や地球上に存在する核弾頭は2万数千発にも上るといわれ、実戦配備の数といわれる1万2千発を広島型の原爆に換算すると、驚くばかりの、実に24万倍に匹敵するとの数値が出ています(これまで使用されなかったことはせめてもの救いですが、核兵器が保有されている限り今後の保障はありません)。
 けれども、昨今、世界の世論がようやく《核兵器の無い世界》の構築を支持する方向へと動き始めたことはご承知のとおりです。米国元高官らの堤言を初め、オバマ大統領のプラハ演説に続く、国連総会での「核兵器保有量の大幅削減」の決意明示・安全保障理事会での「核兵器の無い世界」決議の全会一致採択と、流れが大きく動き始めたことは、世界中の平和を願う多数派の大きな励みとなったのではないでしょうか。戦後最大の盛り上がりとなったこの流れを逆行させることなく、2020年の「核兵器廃絶」の目標に向って、今こそ全世界が一丸となって取り組むべきではないでしょうか。高齢化した私達被爆者も、最後の力を振り絞ってこれまで以上に世論を高める努力をし、長年の悲願である「核兵器の無い世界」を生きて見届けたいものです。