被爆者相談所および法人事務所
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村田未知子さん(被爆者相談員)の証言

村田未知子さん

 広島・長崎への原爆投下から、72年目が過ぎました。72年前、広島・長崎で人類最初の核戦争を体験した人びと、原爆被爆者は、今年2017年3月末、164,621人になりました。
 被爆者の人数が、最高だったのは、36年前の1980年度末、1981年3月31日です。
この最高時372,264人から半分以下164,621人になりました。
毎年1万人近くが亡くなっています。
 被爆者の高齢化も深刻です。平均年齢は、毎年0.7歳から0.8歳上がります。
 今年(2017年)3月には、81.41歳になりました。被爆当時10歳だった人は、今年82歳。ほぼ平均年齢の年になりました。被爆した当時の自分の記憶の伝えられるギリギリの年齢です。
  核戦争の実相を伝えられる人は、日に日に減っています。

 わたしが勤めている東友会相談所は、神田明神の近く、文京区湯島平和と労働センターの6階にあります。わたしは、東京の被爆者の相談員として35年間、この東友会事務所に勤めてきました。
 東友会事務所に入ると、左側の壁のほとんどを被爆者の相談カルテが占めています。
 白いケースは、被爆者のカルテを納めたケース。93個あります。水色のケース61個には、亡くなられた被爆者のカルテを保管しています。 被爆二世のカルテも14のケースに分類しています。数えたことはありませんが、東友会には5000人近い被爆者と被爆二世のカルテがあると思われます。
 きょうは、被爆者とともに35年間生きてきた相談員としてわたしが知った被爆者の人生を、このカルテから紹介します。

 小金井市に住む小林恵美子さんのカルテも東友会の白いケースに入っています。
 小林さんは広島の爆心地から1.6キロメートルにあった自宅で、20歳のとき、お母さんと一緒に被爆しました。小林さんの顔には、原爆で受けたヤケドの痕(あと)がケロイドになって、今も、残っています。

 小林さんの証言です。
 原爆が落ちて、どのくらいの時間がたったかわかりません。気がつくと、ものすごい勢いで火事が迫ってきました。
 母が家の下敷きになっていました。母の上にある、くずれた材木を動かそうとしました。でも、重くて、どうしても動きません。
 あたりにいる人に、『助けて』と声をかけましたが、みんな、凄い形相で、逃げ惑い、だれも手を貸してくれませんでした。
 「あんたは、逃げんさい」と母は言い、お経をとなえはじめました。熱くて、炎が恐ろしくて、わたしは母を残して歩き出しました。
 後ろ髪をひかれる思いでした。
 何度も何度も振り返りながら、「ごめんなさい。親不孝を許してください」と、手を合わせて逃げた辛さは、思い出すたびに涙が出て、一生忘れることができません。

 八王子市に住んでいたUさんは、広島市西観音町、爆心地から1.7キロメートルの自宅で被爆しました。この方のカルテは40年間もの記録が、東友会の青いケースに入っています。

 Uさんの証言です。
 玄関先の道路は、この世とは思えない異常な光景が目に飛び込んできた。男女の区別さえできない人びとが、川に向かって、なだれるように移動していく。
 よく見ると、衣服は焼けてハダカ同然の人、唇や耳が引きちぎられた人、目玉が飛び出た人、内臓が飛び出したまま歩く人。目を覆いたくなる地獄絵図がこれでもか、これでもかと展開していく。
 今も心に残るのは、母親を探して泣き叫ぶ幼子。顔は腫れ上がり全身血まみれになりながらも、母を求めている。その子が群衆に踏み潰される。
 翌日から、自宅周辺の死体を片付けはじめた。死体は膨れ上がり、ウジ虫がとりついていた。口、目、耳、腹部。傷口はウジ虫の巣である。
 住吉川にかかる橋のそばに着くと、川の中は遺体であふれていた。ゴム風船のように膨らんだ遺体の中に、2~3歳の子どもが、大の字になって浮いていた。その子をしっかりと抱きしめた母親が、子どもの上に覆いかぶさったまま、死んでいた。この姿をみたときの感動は、生涯忘れられない。

 Uさんが40年前、1977年に書いた東友会の調査票には「息子さんと娘さんの将来に不安がある」と記入されていました。
 その後には、「被爆から30年以上がすぎても、突然に熱が出で、顔や手がどす黒くなる。薄汚くなり、人前に出るのも苦痛である」と。高校の教師だったUさん。多感な生徒の前の教壇に、「薄汚れた」と思う姿で、毎日立ち続けていたのです。
 そして、被爆から68年目、2013年4月にUさんは亡くなりました。妻に先立たれ、介護を受けながらの孤独な生活でした。
 東京都に申請したUさんの「死亡届」に息子さんは書きました。死亡の原因-「自殺」。「被爆したことを常に悩んでいた」。Uさんの死体検案書には、「外因死 手段及び方法 かもいにロープをかけて頚にまき、自重により気道を閉塞した」と記入されていました。

 江戸川区に住んでいた田部光子さんも、広島の爆心地から1.6キロメートルの場所で子どもたちと一緒に被爆しました。子どもたちは、家の下敷きになったり、爆風で数メートル先の道路に吹き飛ばされましたが、生き残ることができした。

 田部さんの証言です。
 被爆したとき、2歳だった下の娘は、鼻から口にかけて大ケガをしました。傷は化膿して、被爆から2カ月過ぎてもふさがりませんでした。
 食事をすると傷口が裂けるので、か細い声で『あーちゃん、あーちゃん』と、わたしを呼んでいました。
 そして、高熱と血便を出し、10月3日に、消え入るように死んでしまいました。わたしは、燃え残った木を集めて、娘を焼きました。
 しばらくすると、5歳だった上の娘も髪の毛が抜け、高い熱を出し、血便がでてきました。そして、10月18日に死んでしまいました。妹が死んだ半月後でした。
 わたしはまた、子どもの遺体を焼きました。二人の娘のお棺は、形ばかりの箱でした。足が出ている、手が出ている、顔が見える……。娘たちを焼きました。
このときの苦しみは、とても言葉にはつくせません。

 1980年代、被爆者の相談カルテとは別に、カルテを作れない被爆者や家族の記録を、わたしは、メモカードにして残しました。

 1988年8月27日のメモカードの記録です。
 1988年8月27日、東友会のドアの前に、小柄な女性が立っていました。相談コーナーに案内すると、女性は話し出しました。
 「外の看板を見て、一度訪ねてみたかったのです。わたしは、被爆していませんが、主人は、長崎の三菱造船所で被爆していました。
 私たちは、1950年3月に結婚しました。朝鮮戦争が始まる少し前でした。結婚して半年が過ぎた1950年秋、主人は、大量の鼻血をだしました。
 病院にかかると、「再生不良性貧血」だ、毎日、輸血をしないと命が危ないといわれました」。
 1957年に原爆医療法を制定されるまで、被爆者には、医療費の助成も、手当も、まったくなく、原爆による病気の治療にかかるお金は、自分で払わなければなりませんでした。さらに当時は、輸血に必要な血液の多くは血を売る=「売血」という方法で、集められていました。
 「毎日、血を売りに来る人から血を買わなければ、主人に輸血してもらえませんでした。主人は仕事ができないし、わたしも看病があるので、わたしたちには、とても血を買うお金がありませんでした。
 女の人ばかりだから言えるけど、それから1年くらい、主人が亡くなるまで、わたし、街角に立って、お金を稼ぎました。体を使って、主人の血を買うお金をつくりました。
 主人が亡くなってから、37年が過ぎたのですね。いままで、このことは、誰にも言えませんでした。はじめて話しができて、少し、心が軽くなりました」。
 この女性は、二度と相談所を訪ねてきませんでした。

 1990年5月 46歳で亡くなられた狛江市に住んでいた中上賢治さんのカルテも東友会の水色のケースに入っています。
 中上さんが被爆したのは、広島市の2キロメートルの場所。このとき、まだ1歳でした。
 中上さんが入院している病院の看護師から、わたしに電話がきたのは、中上さんが亡くなる1カ月前。病院にきてほしいという伝言でした。

 病院を訪ねたとき、中上さんがわたしに遺した言葉です。
 「被爆したとき、わたしをかばった母親は、上半身に大火傷して、顔から首にひどいケロイドが残ったそうだ。
 中国から帰ってきた父親は、母親の顔がすっかり変わっていたので、別の女性の元に走り、行方不明になったと聞いた。
 そんな父親との間に、子どもができたことを知った母親は、「あんな人の子どもを産みたくない」と冷たい川に浸かって、流産した。その流産の出血が止まらず、母親は死んだ。38歳だった。
 母が死んだ後、わたしは4歳のときから叔母に育てられた。
 わたしが20歳になったとき、はじめて、この叔母から、父と母のことを聞いた。
 この話を聞いたとき、わたしは、「未来はいらない」と思った。それで、叔母さんの金を盗んで、叔母さんの家を飛び出して、ずっと一人で生きてきた。死ぬときも一人でいいと、思ってきた。
 でも、きょう人生ではじめて花をもらったんだよね。広島や長崎で被爆した人たちからの贈り物だと、あなたは言った。
 一人じゃ、なかったんだ。そこにあるカメラで、僕の写真を撮ってくれないかな」。
 中上さんは、少しはにかんで、ピースサインを出しました。中上さんを知って1年。
初めて見た笑顔と優しい声でした。そして1カ月後、中上さんは、食道がんのため亡くなりました。

 被爆者に残された年月は、わずかになりました。その、いのちの残りの年月を、被爆者は核兵器禁止のために献げています。「ふたたび被爆者をつくらせない」のスローガンのもとに。