山田玲子さん 「私の被爆体験とメッセージ」
1945年の春、広島市内の小学校では、学童疎開の命令が出ましたので、大半の子どもたちが田舎の親戚に預けられたり、集団で田舎の学校やお寺に連れて行かれて集団生活をしていました。
私も8月9日に残っている人と一緒に疎開することになっていました。
8月6日、原爆投下の日は朝から真夏の太陽が照りつけ、空には雲一つありませんでした。
私たちは8時に登校して運動場に並び、手旗信号の練習が始まりました。当時、食糧不足で栄養不足の子どもたちは、強い日差しに耐えられず倒れる人が続きました。そこで少しの間木陰で休憩することになりました。
その時まだ運動場の中央に残っていた元気な男の子たちが「B29だ!B29だ!」と空を指さして叫びました。(当時アメリカの爆撃機B29は広島の上空に時々飛んできて空襲警報のサイレンが鳴っていましたので、子どもたちもよく知っていました。)
空を見上げると、真っ青な空高く銀色に光ったB29が白い飛行機雲の弧を描いて飛んでいきました。「きれいだな!」と思ったとたんに、一瞬白い光が走りました。防空壕に向かって走り出した私の背中に熱い砂場の砂が吹きつけ転がりました。
皆で防空壕に着くと近所の人たちでいっぱいで、入ることが出来ず、突然降ってきた雨でびしょぬれになりました―あとで言われた黒い雨ですが―。濡れた体は寒くてガタガタふるえました。
空にはもう太陽が消え灰色の雲がたれこめていました。
私の町は焼けませんでしたので、中心地から逃げて来たケガ人やヤケドをした人たちで道という道は一杯になり歩く所もない程でした。
私の父は、1キロメートル地点の校舎内で被爆し建物の下から助け出され体中ガラスの破片を浴びて血みどろで帰って来ました。
一番上の姉は、1.5キロメートル地点の広島駅のホームで被爆し、首から背中に火傷をして2日目の夕方に帰って来ましたが、薬は何もなく、母がきゅうりの薄切りを並べて冷やしました。きゅうりはすぐ熱で臭ってくさくなり、ハエがとまるので、皆が交代でうちわで逃がしてあげました。姉は痛い痛いと泣くばかりでした。
13歳の姉は、その日病気で学校を休みましたので、命拾いをしました。その日、学校から動員されて市の中心地に作業に行っていた学校の友達は全員亡くなられました。
近所の殆どの家庭で、その日から帰って来ない人、ケガやヤケドで帰って来た人などの犠牲者がいました。
いつも遊んでいた友達の家では、子どもたち5人がお母さんの帰りを待っていました。2日目に四つん這いで真っ黒い塊が飛び込んできたので、子どもたちは黒い犬だと一瞬思ったそうですが、それはお母さんだったのです。子供たちの所に来るなり、倒れて亡くなり、子どもたちが庭で火葬しました。
私の小学校では、3日目あたりから道にあふれていた死体を集めて校庭に溝を何本も掘って焼く作業が行なわれ、町中その臭いがたちこめていました。記録によれば、約2000体の死体が焼かれたそうです。
8月15日に敗戦を迎え、相変わらず食糧難が続きました。
私の小学校では、次の年の春、さつまいもの苗を運動場に植えました。そして収穫の日に土を掘るたびにお芋とともに骨が出てきてあちこちで悲鳴があがりました。私たちは昼食に出たそのお芋を食べることができませんでした。
1945年の8月6日広島に、9日長崎に世界で初めての原爆が投下され、両市合わせて60万人に及ぶ人が熱線、爆風、放射線で被爆しました。
その年のうちに亡くなった広島14万人、長崎7万人のうちで42%の人が行方不明になっています。
あの日生き残った私たち被爆者の多くは、助けを求めてきた人々の声や姿が64年経た今でも忘れられず心の苦しみとして残っています。
その上放射能の影響と思われる病に苦しみ常に不安を抱いて生きている人がたくさんいます。
たった一発の原爆が一瞬のうちにどのように都市を破壊し、大量無差別、無惨に人の命を奪うか、世界の人びとに知ってほしいと思い、私は自分の被爆体験を語り伝えています。
私たち被爆者は、核兵器を悪魔の兵器と呼んでいます。そしてこの地球上に一発たりとも存在することを許すことはできません。
世界の平和な未来のために核兵器は廃絶するべきです。
決してくり返されてはならない原爆の被害。
決して忘れてはならないあの日の死者の悲しみ。
決して存在させてはならない核兵器。