被爆者相談所および法人事務所
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眞實井房子さんの被爆証言

 23歳のとき、爆心地から1.7キロの広島市打越町の自宅で2歳のわが子とともに被爆。2008年4月4日、交通事故で亡くなられました。

ざんげ

眞實井房子さん

 爆心地から1.7キロ、広島市横川駅近くの自宅で被爆、私は23歳でした。妊娠2カ月でした。長男は2歳、夫はもう出勤していました。
 原爆をピカドンともいいますが、庭で洗濯物を干し終え家に入ろうとしたとき、閃光が目を射ましたが、ドンの音は知りません。
 私が気づいたのは、隣のご夫婦の声でした。
「眞實井さんが死んでいる」
「掘り出すんだ、早くっ」
 私は自分の状態がわからず身動きできません。
「生きています。死んでいないっ」
と叫んだつもりが、声にならなかったのでしょう。ピカッと光ったその瞬間、隣と我が家の境の壁もろとも叩きつけられ、潰れた家の下敷きになったのです。隣のご夫婦も埋まったのですが、自力で脱出し、すぐ私方へかけつけられ、両足を出し上半身が埋まった私を見て大声を出されたのを私が聞いたのです。
 ご夫婦とも大けがをし鮮血にまみれながら私を掘り出し、その上、縁側のガラス戸とともに、向かいの家の庭に吹き飛ばされていた息子も助けてくださいました。
 息子は、服が引きちぎれ、頭、顔、体全体にガラスの破片が突きささりそれが血にまみれ、全身が鋭く光っています。私は自分のけがの状態はわかりませんが、息子を見たとたん
「死ぬ、この子が死んでしまう」
と悲鳴をあげ、やにわに息子を抱え走りだしました。私ども母子を助けてくれた命の恩人である隣のご夫婦に、ひと言のお礼をいわないままで──。助けられた瞬間から、私は息子と自分だけが生きることしか頭になかったのです。
 逃げる途中でした。私の足をつかんだ子ども、片目が飛び出し顔の真んなかにぺたっとはりつき、その一つ目玉が下から私を睨みつけています。
「一つ目小僧だっ!」
 私はその子を蹴とばしました。夢中でした。こわかったのです。一つ目小僧が追ってくる。ただ、逃げました。
 突然の夕立です。太くはげしい雨足は私の体の傷口を刺しえぐるようで、立っていられず、息子にかぶさるようにしてすわりこみました。土砂をはね飛ばす勢いの雨です。
 どれぐらいたったでしょうか。雨は、ぽつんぽつんと小降りになってやみました。立ち上がろうとして、腕のなかの息子を見ると、全身に刺さっていたガラスの破片が、いまの雨できれいに流れているのです。
「助かった」うれしくてしっかり抱きしめたものです。この雨がいわゆる黒い雨なのですが、私は気がつきませんでした。
 私が着いた場所は、三滝の川、幅は百メートル以上、3分の1は水が流れていますが、3分の2は、荒れた川原です。そこには浅く細い流れがいく筋も縦横にはしっていますが、いま目の前で、その流れという流れに、折り重なって人びとが顔をつっ込んだまま死んでいるのです。そして、その流れまで行こうとして、焼けただれた人たちが、あとからあとから「水」「水う」と、はいずり回って手を差し伸べています。「水」「水」の声が、阿鼻叫喚にまじってひときわ高く聞こえます。
 私ものどが渇きます。浅い流れに入り、死体を足で左右に分け、間にすわりました。水は私の膝すれすれです。もう夢中で水をすくい、息子に飲ませ私も飲みます。
 ガラスの破片は雨で流れたものの、頭から体全体に無数の傷が口をあけている息子も、息する間もないくらい、むさぼるように水を欲しがります。
 まわりには、男か女か見分けのつかないおとなや子どもたちがのたうちまわり、「水」「水を」と呻く声ばかり。でも私はその人たちに、1滴の水も飲ませてあげませんでした。
 そのころ、私のすぐそばへ、小学校1年生くらいの14、5人の女の子を連れた、2人の女教師がやってくるなりばたばたと倒れました。と、その子たちを見た私は全身が凍りました。顔がない。逆立った頭の髪の毛の下に顔が見えない。ひきちぎれた皮膚が垂れ、目も鼻も口もわかりません。でも、声を出しています。
「先生、助けてえ」
「先生、お水う」
 仰向けに倒れた子は皮膚が裂け、それが指にからまって、両手を上に伸ばしてもだえ、うつぶせになった子は両手で川原の砂をかきむしりながら、断末魔の苦痛にあえぎあえぎ、どの子も
「先生っ」
「先生っ」
と呼んでいます。
 ひとりの先生が、どうにか起き上がりましたが、立つことはできません。両手をつき、よつん這いの格好で、子どもたちの声のする方へ、顔でない顔を向け、
「みんなね、学校に爆弾が落ちたんだから、すぐに迎えに来てくれますよ。でも、みんな大けがをしていて、顔がよくわからないから、大声で自分の名まえを言いなさい」
きれぎれに、やっとそれだけを言った先生も、それっきりでした。
 先生の言ったとおり子どもたちは、めいめいが自分の名まえを名乗り始めました。
「田中ケイ子よ、ここにいるよ」
「山田とし子、私よ」
 彼女たちは名まえをとなえながら、
「先生っ、助けてえ」
「先生、お水飲ませてえ」
と、言いつづけています。
 私は自分の手で水をすくい、息子に飲ませたり、体にかけてやったり、それを無意識にくり返しながら彼女たちを見ているだけでした。私には、何の感情もありませんでした。
 あの日、広島の人はみな、自分がいる場所に爆弾が落ちだと思い込んでいました。だから、けがをして逃げている自分を、家族のだれかが迎えにきてくれるものと待っていたはずです。1つの原爆で広島が飛散したなんて、だれもが想像さえし得なかったことです。
 ふと気がつくと、水につかっている私の膝の上に、幼い女の子が腹ばいになり、身をのり出して、流れに顔をつけ水を飲んでいます。私のすぐ横に、お母さんらしい人の焼けただれた無惨な背中が見えます。幼い女の子、3つか4つくらいでしょうか。その子が自分の小さい両手で水をすくっては母親の口にはこんでいるのです。小さな小さな手ですから、すくった水は、すぐにしたたってしまいます。おそらくお母さんの口には、水は入らず、お母さんは女の子のぬれた手をなめるだけだったでしょう。
 なんどもなんども、女の子はそれをくり返していましたが、それを目の前で見ている私は、幼い女の子に手をかすこともしませんでした。自分の手ですくう水は息子にだけ与えました。
 地獄となった三滝の川原で夜が明けたとき、私の膝から幾度も母親に水をはこんでいた幼い女の子は、ただれた背を私に見せたまま、すわった母親の腕から小さい顔を垂れて死んでいました。「先生、先生」とどの子も先生を呼びつづけ、先生にいわれたとおり自分の名まえをとなえた、あの女生徒たちもみな死にました。
 だれも迎えにはこなかったのです。私は、隣のご夫婦に助けられましたが、だれも助けませんでした。「鬼の目にも涙」といいますが、私は鬼ですらありませんでした。
 「原爆」と言えば、「水」です。そのとき私は、自分の手で水をすくい飲みました。だれにもあげないで──。水を飲む私を恨めしい目で見ながら死んだ人たち、いまも私は、その人たちの怨念にしばられています。
 私の被爆体験は、ただただ、あの日の懺悔でございます。私が生きている限りざんげしましても、あの日の非情な罪は許されるものではございません。