長岡和幸さん 「私の被爆体験」

長岡和幸さん

 私は1934年生まれの76歳です。
  あの日、1945年8月9日、長崎市鳴滝町という、爆心地から東南方向で3.3キロメートルの自宅屋内で被爆しました。11歳で小学校6年生でした。

 当時はものすごい食糧難で、毎目の食事は、カボチャ、ジャガイモ、サツマイモというのが当たり前で、たまにご飯であっても、オカユ、芋ご飯、配給された大豆のカスいりのご飯、麦ご飯は良い方で、白いご飯はいつ食べたか覚えがないほどでした。従って、空き地を畑にし、親戚の畑を借りて野菜を作るのが日課でした。当日も、朝早くから畑に出掛け、いろいろな野菜を収穫し、お昼の手伝いをしていた11時2分、一瞬の閃光で空間が真黄色になったと記憶しています。慌てて家族全員が裏庭に逃げてしゃがみ込みました。その後何分か何秒か、どのくらいたったのかは記憶にありませんが、砂嵐を受けました。小学生ですし、半ズボンで靴下は履いていませんので、膝のところに砂というか石つぶてというか、要は爆風で地面からものすごく強い早い、痛いという小さい砂粒が当たったのを記億しています。

 長崎の地形は山あり谷ありで、私の家は山の反対側です。それでも、そういう爆風が来たのです。私の家は道路に向いて割りと大きな家で、父が洋服屋でしたので、正面が三間位のガラス戸の店構えでしたが、ガラスが全部割れ、枠だけが残り、中間仕切りの障子も枠だけ残り、その奥の押入れの襖も枠だけ残り、全部がめちゃくちゃになり、その爆風は上に上がり、屋根を突き抜けましたので、天井の瓦が吹き飛びました。家は潰れませんでしたが、青天井の状態になりました。部屋には上がれないので、家の前の防空壕に一時避難し、1,2時間後に町内の大きな防空壕に避難し一泊しました。夕方になり、爆心地方面に勤めていた人々が、歩いて帰ってきたという話を聞きました。それらの人々は皮膚が焼け爛れ、垂れ下がり、頭が半分こうなってとか、髪が焼け縮れてどうとか、そういう姿でお帰りになったと思いますが、私は見ていません。親、兄弟も原爆死でなく、どうやら現在に至っています。従って、九死に一生、死に損なったとか、自分一人生き残ったとか、友達を見殺しにして逃げたとか、家族が目の前で焼け死ぬのを見ながら自分だけ逃げたとかいう方がたくさんおられます。私はそういう方々と比べれば被爆者らしからぬ被爆者だと思っています。

 では、何故、被爆者運動に何十年もかかわってきたのだろうか。自分自身、何回、何十回、何百回考えても答えはでません。ある先輩の被爆者に、「被爆者運動にかかわったら、死ぬまで抜けられない、泥沼に足を踏み込んだのと一緒だ」と言われました。その通りかもしれません。ただ一つ言い訳するならば、大儀名分かもしれませんが、前に申し上げた、残酷な殺され方をした人々に代わってまた、自分がやりたいと思っていても身体が動かない、思いはあっても、出来る人と出来ない人がおられる、それらの人に少しでも手助けになれば、被爆者の一人として被爆者らしい仕事をしたと、あの世で話しが出来るのではないかと思っています。前にも申しましたが、被爆者らしからぬ被爆者ですので、原爆の事に関しては大きな事は申し上げられません。しかし、戦争はどんな戦争でも絶対にしてはいけません。戦争によって、苦労し、悲しい思いをし、ひもじい思いをし、平和な暮らしを失うのです。世界中から「核戦争」はもちろんですが、どんな戦争でも一日も早くなくなり、世界中が平和な、和やかで毎日笑って暮らせるような日が来ることを願ってやみません。