被爆者相談所および法人事務所
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濱住治郎さんの被爆証言 「私の被爆体験 ――父を想う――」

濱住治郎さん

 私は広島の胎内被爆者で濱住治郎と申します。父が亡くなって70年がたちました。その時、母親の胎内にいた私は翌年に生まれ69歳になりました。部屋にかけてあった父の写真を毎日見て育ちました。父は49歳で亡くなりましたが、私がその年になったとき、兄弟に、6日の行動を書いてもらいました。私に被爆の体験がない中で、母の胎内(おなか)からみた原爆、まだ見ぬ父への想いをより確かなものすることができました。
 父は、8月6日の朝、いつもの通り会社に出かけました。8時15分、人類史上初めての原爆が広島に投下されました。熱線と爆風と放射線により街は破壊され、市内に住んでいた親戚家族が、爆心地から4キロ離れ、倒壊を免れた我が家に避難してきました。母方の二十歳になる従兄弟が同じ部隊の全身火傷(やけど)で重傷の友人をつれてきました。
 6日は、我が家は親戚や家族で30人にもなり、家族の無事をみんなが心配しましたが、いつまで待っても父親だけ帰ってきませんでした。翌日、母と姉たちは、父を捜しに、爆心地から500メートル付近の会社に出かけました。焼けた熱さ、死体の臭い、耐えきれない思いの中で探しましたが、見つけることができませんでした。翌日、また、出かけました。会社の同僚によってようやくわかり、焼け跡から、父が身に着けていたバンドのバックル、ガマ口の金具、鍵の三点をみつけ遺品として持ち帰りました。
 父を捜しにでた家族は、2、3日後から熱・下痢などの症状がでました。兵隊さんの火傷(やけど)部分にはウジ虫がわいており、塗る薬もなく、赤チン、ジャガイモの擦ったものを塗るしかなかったそうです。しばらくして、我が家で息をひきとりました。避難してきた従兄弟も、3、4日して熱がでて、髪の毛が抜ける症状がでて亡くなりました。3歳の従兄弟は無傷でしたが、20日ぐらいで亡くなりました。身重の母の代わりに作業にでた叔父も3日後に亡くなりました。
 一番上の姉は16歳、二番目の姉は14歳で、6日は二人とも軍需工場などで働いていました。兄は12歳、三女の姉は9歳で、学童疎開で家を離れ、広島近郊のお寺で生活をしていました。四女1年生7歳と五女4歳は自宅にいましたが、幸いにも子どもたちは6人全員が助かりました。
 30人もの集団生活のなか、私は翌年の2月に生まれました。父が亡くなり母と7人の子どもが残されたのです。
 母は、電気の集金の仕事の合間、田んぼや畑仕事で家計を助け、兄は大学をあきらめ、銀行に勤め家族を支えてくれました。進学、就職などの時には、父親だったらどんな言葉をかけてくれたでしょうか。
結婚して、子供を持ったとき家族の幸せを感じることができました。49歳で人生を終えた父。子供のこと、それからの人生のことなど、父なりの想いがあったはずです。その分、自分が一日でも長く生き、父の分まで生きなければと思うようになりました。
 70年たった今、原爆の残虐さと放射能は今も、被爆者を苦しめています。私たちは、世界におよそ16,300あるといわれる核兵器の恐怖の中で、暮らすことを余儀なくされています。私には、戦争はまだ、終わっていません。父の死は、つい昨日の出来事のように思えるのです。核兵器の恐怖から完全に逃れるまで、被爆者は安心して死ぬことはできないのです。
 昨年、8月5日、初めて原爆胎内被爆者全国連絡会が広島で開催され、全国から22名が集まりました。一番若い被爆者として母親や父親や家族のことを伝えていくことを確認しました。胎内で被爆したからその被害を免れることはなく、小頭症児の事例にみられるとおり、むしろ胎児だったからこそ、その無防備な若い細胞にとって放射線の影響は、計り知れないものがあります。胎内被爆者には「生まれる前から被爆者の烙印がおされている」といわれています。
 いま、全国に約7300人が被爆者健康手帳をもっている胎内被爆者ですが、私もその一人として、原爆で亡くなられた多くの方々に追悼の想いを馳せ、「再び被爆者をつくらせない」という思いを胸に、非人道的な兵器、絶対悪の兵器である原爆、核兵器の廃絶に向け、取り組んでいきたいと思っています。