被爆者相談所および法人事務所
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原爆症認定集団訴訟 東京の原告の証言

 原告の、法廷での証言をまとめました。リンク先は証言の全文です。

第1次訴訟 第1回口頭弁論 2003年7月28日

加藤力男さんの証言
【概要】 振り返ると、よくここまで生きてきたと思います。他面、原爆にあわなければ大切な年代を無駄に過ごすことはなかったのにと思います。そして、今、癌に苦しんでいます。あんな惨いことは二度とあってはならないと思います。私たちのような苦しみは私たちだけにしてもらいたいと思います。
関口智恵子さんの証言
【概要】 私たちが原爆に遭ったのはまぎれもない事実です。原爆は私の家族を全て奪い、現在でも私自身の体をむしばみ私を苦しめ続けています。このような私の悲しみを理解してください。そして、国はきちんと責任を認めて補償してください。お願いします。

第1次訴訟 第2回口頭弁論 2003年9月11日

梅園義胤さんの証言
【概要】 腎臓の腫瘍、そして肺ガン。病気にしばられた生活が今後も続くのは耐えられません。友人・右近君の裁判にかけた思いが叶えられなかった無念さ、私のこのような気持ちを理解してください。
齊藤泰子さんの証言
【概要】 入市被爆だからといって放射線の影響がないということは間違っている、私のように急性症状が出て苦しんでいる人もいるということを分かって頂きたい。最後までたたかっていきたい。

第1次訴訟 第3回口頭弁論 2003年11月12日

西本治子さんの証言
【概要】 海外の原子力発電所事故のことや核実験場周辺で子どもたちが甲状腺の病気にかかっていることを知り、私の病気も放射線によるものに違いないと確信するようになりました。
 一人でも多くの被爆者が救済され、日本が二度と戦争をしない、核兵器を絶対に許さない国になれば、との思いから、この裁判に加わることにしました。これが、原爆で命を失った人々に対するつとめでもあると思います。

第1次訴訟 第4回口頭弁論 2004年1月28日

大森克剛さんの証言
【概要】 あの世にも恐ろしい原子爆弾の洗礼を受け、今なお、妻や子どもや孫たちを巻き添えにした潜在被爆という悪魔の恐怖にさいなまれています。
 孫が小学校に進学したときに言いました。「おじいちゃん、日本は戦争したことあるの?」。二度と同じ過ちを犯さないためにも、戦争により、原子爆弾により苦しみ続けている私たち被爆者に対して、日本政府は責任をとるべきです。私たちはこの裁判に最後の命をかけています。

第1次訴訟 第5回口頭弁論 2004年4月12日

山本英典さんの証言
【概要】 1995年9月25日、職場で大量下血。ファイバースコープで出血場所を探しましたが分かりませんでした。これは私だけの特異なことではありませんでした。被爆者には、今の医学では解明できない、原因不明の疾病が起きる可能性があると感じています。私たちはこれまでの原爆症認定方法が納得できないのです。提訴した人も早くも2人が死亡、一人は痴呆症になり、一人はガンの転移で深刻な状態です。私たちは生命を削る思いで裁判に取り組んでいます。
平井園子さんの証言
【概要】 嫁ぎ先では、「被爆者だから子どもが出来ない。」と言われ、4年目に身ごもると「『カタワ』を生むな。」と言われました。ビルの窓から下を見ると「あそこに降りたい。降りたらどんなに楽になれるだろう」と思います。ふわーっと飛べるような気がするのです。唯一の被爆国と称えられながら、被爆者は国から見捨てられているのが現状です。これ以上、高齢化した被爆者に、悲しい思いで死を迎えさせないで下さい。それが「国の責務」と考えるのは間違いでしょうか。

第1次訴訟 第6回口頭弁論 2004年6月25日

福地義直さんの証言
【概要】 私は、普通並の健康とはどんな状態をいうのかが分かりません。14歳で被爆して、その後ずっと体調が悪いことが当たり前だったからです。普通の人の普通の健康状態がどんなものか自分も味わってみたい。いつもこう思っていました。
 私も、人を見殺しにしたり、死体をまたいで逃げましたので、本当にすまないことをしたと、自分を憎み、原爆を憎んでいます。私は恐怖心よりむごたらしい体験をしました。これが原爆の被害であるということを是非お分かりいただきたいと思います。

第1次訴訟 第19回口頭弁論(結審) 2006年7月12日

山本英典さんの証言
【概要】 この3年の、原告たちの文字通り命をかけた訴えに対し、厚生労働省側は「脱毛したのは栄養が悪かった、またはストレスのせいではなかったのですか」、血性下痢については「衛生状態が悪かった、または悪い物を食べたせいではないのですか」と言ったのです。被爆者の脱毛というのは、髪がばさっと抜けるんです。抜けたあとの頭はぶよぶよで、指で押すと頭皮がへこむのです。こんな脱毛が広島、長崎で相次いだのです。それを、栄養のせいだとかストレスのせいだとか、よくも言えたものです。この法廷で、市川定夫証人もいいました。「広島は軍都でした。おそらく日本でもっとも衛生状態が良かったのではないでしょうか」。
 被爆の実相に目をつぶって、どうやって「科学的、医学的、最新の知見」なるものが見えてくるのでしょうか。厚生労働省の脱毛と下痢についての「最新の知見」なるものは、20年前の松谷訴訟でも主張され、長崎地裁、福岡高裁、最高裁でも否定されました。それを、この法廷でも蒸し返しているのです。
 こうした厚生労働省の姿勢には、司法への敬意も、科学にたいする真摯な姿勢も、被爆者行政を担当するものとしての真剣さも、全く感じ取ることができません。厚生労働省がこのように頑な姿勢を取るのは、「原爆投下は国際法違反とは言えない」といいつづけている、核兵器に対する日本国政府の考え方に根っこがあると思います。被爆国日本の政府でありながら、意図的に、核兵器の被害を軽く見せようとすることに、私たちは怒りを抑えることができません。
梅園義胤さんの証言
【概要】 現在も定期的に2ヶ月ごとに通院と、半年毎にCT撮影などを行い、週2回、インターフェロンの自己注射を続けていますが、注射の影響で皮膚に炎症が発生し辛い思いをしております。副作用のためか体が弱ってきています。身内を見回してもガンになった者もいなく、被爆による放射能が原因でないかと考えるようになりました。治療を始めてから、19年も経過していますが、今後も辛い治療が続くと思うとたまりません。自己注射もいつまで続けられるか分からず、自己注射ができなくなったらどうしようと思うととても不安です。原爆を受けずこのような病気にならなかったなら、いろんなことが出来る人生があったと考えるとたまりません。ガンの発症で、だんだんと体力も落ち、気力も落ちるのはたまりません。
 この様な状態であっても、国は現実を見ようとせず認定しないのは許せません。
 原爆症認定却下を受けた被爆者はガンなどの病気で苦しんでいます。国は認定却下を繰り返して、被爆者が死に絶えるのを待っているのではないでしょうか。許せない気持ちと怒りを感じています。
齊藤泰子さんの証言
【概要】 私は、熱線も爆風も受けていません。やけども怪我もしていません。しかし、私は入市直後から急性症状に苦しみ、今癌に殺されそうになっています。私は、体は弱くても、大きな病気にはかかりませんでした。ところが、平成13年に直腸癌がみつかり、翌14年に再発しました。手術で直腸全部をとり、人工肛門をつけました。平成15年には、右骨盤内のリンパ腺に癌が転移していることが分かりました。手術の出来ないところであったため、放射線を1ヶ月間あてました。一時は癌も沈静化しましたが、翌16年、放射線治療により腸が癒着し、腸閉塞を起こしました。胃ろうを付け、毎日点滴ができるように点滴の管もつけました。このときから現在まで約2年間点滴だけの生活をしています。現在体重は30キロです。癌が大きくなり、腰の神経を圧迫して、体中がしびれています。主人に手伝ってもらってやっとトイレに行けるという状態です。これまでは、体が弱くても人一倍頑張ってきました。炊事、洗濯、買い物、掃除、何でもしてきました。しかし、今は体中がしびれ、何もすることができません。頑張ろうとしても、がんばれません。
(ページ編集者注:齊藤さんは車いすでの出廷でした)
中山勇栄さんの証言
【概要】 子どものころから、走るのも泳ぐのも得意で、マラソン大会や水泳大会でもいつも1番でした。
 爆心地から1キロの三菱病院浦上分院1階で被爆しました。火傷はしませんでしたが、無数のガラス片・木片が身体の後ろ全体に刺さっていました。
 たまたま顔見知りがトラックで防空壕に運んでくれ、そこにいるのを偶然知って迎えに来てくれた両親とともに帰ったのは13日、入院直後から40度を超える高熱が約1週間続き、おう吐、吐血、下痢、下血を繰り返しました。身体に斑点も出てきました。髪の毛が全部抜け落ち、歯も全部抜けてしまい、私は14歳で総入れ歯になってしまいました。被爆後は17歳まで生理は止まったままでした。その後5年近く身体のあちこちからガラス片が出てきました。そのたびにできる傷口は化膿して、うみが治まったと思っても、すぐにかゆくなって触っているうちにまた皮膚が破けてうみが出るということを繰り返しました。
 原爆で痛めつけられてから、私の人生はすっかり変わってしまいました。あんなに元気だったのに、その後の60年間からだ中の痛みとあらゆる病気の連続でした。この苦しみをせめて認定という形で償って欲しいと思います。
片山文枝さんの証言
【概要】 被爆の翌年2月に生まれた娘は、原爆小頭症でした。私があの日あそこにいたせいだと自分を責めました。同時に、かけがえのない娘の人生に私の全生命をかけて償おうと思いました。娘は、とても思いやりのある優しい女性に育ちましたが、今でも時折「おかあさん、私はばかなんでしょう」と申します。その度に、胸の奥底をえぐられるような悲しみにさいなまれます。
 原爆は、あの日、広島の全てを奪い尽くしました。人間が人間であることを奪いました。私たちの人生を奪いました。私たちは、この60年以上もの間、なぜこんなにも苦しまなければならなかったのでしょうか。私の原爆症認定申請を却下した国は、私の苦しみは自業自得だと言っているようです。
 当初、この裁判において、娘のことは言いたくないと思っていました。しかし、この世に生を受けたその日から原爆の被害を物語ることになった娘のことこそ、後世に伝えねばならないと思うようになりました。私は、もうわずかしか残されていない自分の生命をもって、この裁判を闘い抜き、娘と私の苦しみがなぜ存在するのかを伝えなければなりません。人が二度と再び私たちのような人生を歩むことのないよう、祈っております。