東京訴訟結審 梅園義胤さんの証言
1 これまでに二度、原爆症認定の申請をしましたが、いずれも却下されています。
2 私は、1945年8月6日に広島で、5歳の時に被爆しました。被爆直後は、大変疲れやすい身体になって家でごろごろ横になっていたと母から聞きましたが、その後は被爆による体調の影響もなく健康に過ごすことが出来ました。建設会社に就職も出来て、結婚もして長男長女も生まれました。定年まで働き、穏やかな老後を過ごすつもりでした。
3 しかし、昭和62年(1987年)、47歳のときに被爆健診で左腎臓の腫瘍が見つかりました。そのため、東京慈恵会医科大学付属病院にて摘出手術を受けました。医者からは腫瘍を摘出したので完治すると言われ、快復を望んでいました。それもかなわず、だんだんと体調が思わしくなくなり、歩くのも辛い状態が続くようになって、50歳のときに仕事も辞めざるを得ませんでした。ちょうど働き盛りの頃で、どうしてこの年で仕事を辞めなければならないのかと思うと、ほんとうに悔しかったです。
通院してCTの写真は3ヶ月おきに撮影しておりましたが、右肺が真っ白になり、1995年に肺がんの診断を受けて、摘出した腎臓の腫瘍はガンでありそれが肺に転移した事を知りました。辛い治療を受け、完治したと思っていましたが、とんでもない事となりました。
4 現在も定期的に2ヶ月ごとに通院と、半年毎にCT撮影などを行い、週2回、インターフェロンの自己注射を続けていますが、注射の影響で皮膚に炎症が発生し辛い思いをしております。副作用のためか体が弱ってきています。医者に相談しても免疫力は高まり、治療効果が出ていると言われ、この治療を止めることは考えられません。
何故にこのようなガンになったかと、身内を見回してもガンになった者もいなく、被爆による放射能が原因でないかと考えるようになりました。治療を始めてから、19年も経過していますが、今後も辛い治療が続くと思うとたまりません。自己注射もいつまで続けられるか分からず、自己注射ができなくなったらどうしようと思うととても不安です。
最近、私が最初に腎臓の手術を受けて通院していたときによく見かけていた患者さん達がほとんどいなくなってしまいました。主治医の先生に「先生、みんないなくなりましたね。」と言うと、先生は「うん、そうだよ。」と言われました。今度は自分の番なのではないかと思うと、不安で仕方ありません。
原爆を受けずこのような病気にならなかったなら、いろんなことが出来る人生があったと考えるとたまりません。
ガンの発症で、だんだんと体力も落ち、気力も落ちるのはたまりません。
この様な状態であっても、国は現実を見ようとせず認定しないのは許せません。
私の被爆当時に同じ町内に住んでいた私の兄の友人が、2年ほど前に原爆症と認定されました。その人が認定されてなぜ私が認定されないのかと思うと、本当に悔しかったです。
5 私は、平成15年(2003年)7月11日に亡くなった原告の右近行洋さんとは、幼なじみでよく一緒に遊んだ中でした。彼と一緒に原告に加わりましたが、彼は悪性リンパ腫・転移性脳腫瘍で体調が悪く、何とか一緒に頑張りましょうねと言っていましたが、だんだんと元気がなくなっていき、裁判に来ることは一回も出来なくなりました。私は、彼が亡くなる4~5ヶ月前から、病院に数回行きました。そうしたら、右近は非常に喜んでくれて、肩を抱いたり手を握り合ったり、涙をボロボロ流しながら話をしました。彼は、「何で俺がこんな病気にならなければならないのか。」と良く言っていました。右近は結局判決を聞くことなく亡くなりましたが、本当に悔しかったと思います。あんなに元気だった右近が、こんな結果になってしまったのは、原爆の影響以外には考えられないと思います。私も本当に悔しい気持ちで一杯です。
6 原爆症認定却下を受けた被爆者はガンなどの病気で苦しんでいます。国は認定却下を繰り返して、被爆者が死に絶えるのを待っているのではないでしょうか。許せない気持ちと怒りを感じています。
裁判所には、是非我々多くの被爆者のおかれている状況をご理解頂き、正しい判決をして頂きますように宜しくお願いします。