被爆者相談所および法人事務所
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東京訴訟第3回口頭弁論 西本治子さんの証言

 西本さんは当初匿名でした。訴訟の記事では「N子さん」となっているものがあります。その後実名を公表されました。

(1) 1945年8月当時、私は7歳でした。長崎市大浦町の自宅に、両親と子ども4人で住んでいました。

(2) 私は、昭和19年に小学校にあがりましたが、空襲に備えて机の下にもぐる練習ばかりしていたように思います。サイパン陥落の日は、自宅の防空壕で母親にしがみついていました。その後、母の勤めていた会社が、活水女子短大の崖下に防空壕をつくり、そこへ避難するようになりました。夜起こされて、「眠い眠い」と言いながら歩いて行った記憶があります。昭和20年になると、この防空壕で寝泊まりをするようになり、炊事の時だけ両親が自宅に戻っていました。

(3) 8月9日、私はこの短大の崖下の防空壕のそばの高台で、姉、妹と花を摘んで遊んでいました。空襲警報が鳴り、姉が「防空壕に行こう」と言うので子ども3人、歩いて坂を下っていた時です。突然、ピカッと稲妻のような閃光を感じ全身が黄色からオレンジ色の光に包まれました。続いてドドーンという地響きがして、ものすごい砂嵐のようなものに襲われました。砂塵がもうもうとする中、避難する大人にはさまれるようにして防空壕に入りました。しばらく耳がキーンと痛かった記憶があります。母が、「治子、明子!」と大声で私たち子どもの名前を呼びながら壕に戻ってきました。その時私は両親のいない不安で大声で泣いていたそうです。母は、自宅の防空壕に避難したあと、父が止めるのもきかず瓦礫の中を走って私たちのいる壕に来てくれたそうです。母は、眉間から血を流し肩も脱臼していました。

(4) やがて、爆心地の方から、山の手の方へ向かって逃げようとする人たちが次々とやってきました。その有様はまさに地獄そのものでした。皮膚が焼けただれ、すすと血にまみれた人たち。髪の毛が燃えてボサボサになり、服が焼けてお尻丸出しなのに呆然と歩いている女学生もいました。脚の不自由な人が首からハガマを提げ、いざりながらやってきて、母に「タバコを一服吸わしてくれんですか」と言いました。見るとその人の唇は焼けただれ、とてもタバコをくわえられる状態ではありません。母はタバコを自分で吸うと、フーと煙を吹きかけてやりました。その人は「ありがとうございます」と言って、またどこかへいざってゆきました。
 みな、行くあてが有ったのかどうか、いったいこのうちの何人が生きのびることができたのか知るよしもありません。壕のそばで力つきたり黄色い液を吐いてそのまま死んでしまう人もいました。

(5) 夕方、父に連れられて高台に登ってみると、長崎の街は火の海で真っ赤になっていました。ショックでした。7歳の私にとって、長崎は、自分が生まれた時から住んでいる街、家族や親戚が暮らす街、自分が属している世界そのものでした。その長崎の街が火の海となっているのを見て、「ああ長崎が無くなってしまう、長崎が燃えてしまったらわたしたちはどうなるんだろう」と不安と恐怖を感じました。
 近所の大人たちは救助隊を組織して市内中心部に出かけてゆきました。その人たちが壕に帰ってきて、中心部は悲惨な状態だ、という話をききました。

(6) 翌10日から12日にかけて、私たちは、浜口町に住んでいた父の姉2人の安否を確かめに行きました。妹は母か父におぶわれ、私は姉に手をひかれ、爆心地に向かって歩いてゆきました。海岸ぞいの通りに出ると、そこここに死体があり、私は息をのみました。大波止のあたりでは、遺体をがれきのように積み上げて燃やしていました。爆心地へ近づくにつれ、人と人が抱き合ったまま黒こげになった死体、首だけの死体、男か女かもわからないススだらけの死体がそこここにありました。防火槽に何人もの人が頭を突っ込んだまま死んでいるところも見ました。母は、私たちに「見るな」と言いましたが、この悲惨な情景はわすれようと思っても忘れられません。山王神社の片脚の鳥居を見たことや長崎医大病院のそばを通ったことを覚えています。私たちは3日間中心地のガレキだらけの街を探し回りましたが、結局おばたちの安否はわかりませんでした。

(7) 私たちは、母の実家のある天草に行きました。薪を運ぶ船に乗ると、船底には瀕死の人々が寝ていました。船底からはこの人々のうめき声やうなっている声が聞こえ、火傷にハエが来て蛆がわいているのだ、と聞かされました。私たち子どもは、眠りこんで海に落ちないよう、帆柱に身体をくくりつけられていました。終戦を知ったのはこの航海中です。

(8) ところが、天草に着く前から、私の身体にさまざまな異変が出始めました。
 まず、両手のひじから手のひら、指と指の間に至るまで、無数のぶつぶつができて、天草に着いた時には、両手がはれあがって手が使えないほどでした。ぶつぶつは直径2,3ミリで膿をもって黄色くなり、治っても次から次にできてきます。私は、それまで特別な病気をしたことが無かったので、自分でもびっくりしてとても不安でした。結局このぶつぶつは、半年間治りませんでした。
 また、被爆後、ひんぱんに結膜炎になり、毎年春になると、目があけられないほどの目やにに悩まされました。
 ちょっとした傷がすぐ化膿してなかなか治らなくなり、包丁の傷やひっかき傷もまわりが赤くなって化膿してしまいます。口内炎ができると大きくはれあがって黄色く化膿し、舌先にできた時など舌全体が大きくなってしまいます。化膿しやすい体質は今も同じです。

(9) からだの異変は、その後もずっと続いています。
 白血球の値はずっと2000台で白血球減少症と診断されました。治療を受けた時だけ3000台前半になりますが、治療をやめるとすぐ戻ってしまいます。血圧も下が50から60台、上も80から100前後で推移しています。
 被爆後、周期的に激しい偏頭痛に襲われるようになり、数年前までずっと苦しめられていました。突然頭がズキンズキンと痛みはじめ、吐き気がして戻しても戻しても胃液が出てしまってもおさまらず、とにかく部屋を暗くして寝ているほかありません。この頭痛は、昭和60年(1985年)に甲状腺機能低下症と診断されて薬を飲むようになってから以前よりも楽になりました。
 生理の時は、腹痛が始まり、決まって口内炎ができます。そして、激しい頭痛が始まり、吐き気がして、市販の鎮痛剤もききません。いつも最初の日は家事や仕事はまったくできない状態でした。
 昭和58年(1983年)ころ、からだの変調をきたし、昭和60年に甲状腺機能低下症と診断されました。以来、薬を欠かすことができません。甲状腺の治療を開始した後、頭痛は以前ほどではなくなりましたが、平成9年(1997年)には、胆嚢ポリープが見つかり現在経過観察の状態です。

(10) 私は昭和40年(1965年)ごろ結婚しましたが、原爆のせいで障害のある子が生まれるのがこわくて、どうしても子どもを生む気になれませんでした。
 結局、夫とは昭和52年に協議離婚しました。
 夫には、結婚直前に生まれた連れ子がいて5年生か6年生になっていました。離婚する時、子どもに、「お母さんといっしょだったら貧乏するけどどうする」と尋ねると、子どもは「おかあさんといっしょがいい。おかあさんといっしょにがんばる」と言ってくれました。この言葉で、私の覚悟が決まりました。
 私は、企業の研修所の調理の仕事をみつけ、必死に働きました。しかし、もともと低血圧で朝がつらいうえに偏頭痛に悩まされながらの仕事はきつく、昭和58年(1983年)ころ、子どもが病気をしたのがきっかけで、私自身も、体重が急激に落ち、精神的にも鬱状態になって、とうとう、どうしても身体が動かなくなってしまいました。二ヶ月間入院しましたが、退院後も不調は続き、どうしたのだろうと思いながらも生活に追われ、昭和60年(1985年)に、甲状腺機能低下症になっていることがわかったのです。

(11) 私は、今まで、原爆症の申請をしたことはありませんでした。被爆距離が2キロを超えている人は認定してもらえない、と聞いていたからです。また、長崎や熊本県に住む姉は、親族が原爆症の申請をすることに消極的です。私自身、就職した時、「あなたが被爆者であることは就職したあとも言わないでください」と言われました。被爆者は、どんなに身体が悪く、不安を抱えていても、周囲の人にそれを話すことさえ難しく、一人で病気や不安と闘っているのです。国は、このような被爆者の実情を少しでも考えたことがあるのでしょうか。
 私は、海外の原子力発電所事故のことや核実験場周辺で子どもたちが甲状腺の病気にかかっていることを知り、私の病気も放射線によるものに違いないと確信するようになりました。私だけではありません。母は、天草に着いた頃、突然髪の毛が抜けて急に体力が無くなり、約1年ほど半病人のようでした。妹も、肝臓が悪く、原爆症の認定申請をしています。私たちにこんなことがおこる原因は原爆以外に考えられません。国は、被爆者の実情にあわない審査の方針を改めるべきです。

(12) 私は7歳で原爆の地獄を体験しました。原爆は、私が何より愛していた長崎の街を破壊し尽くしてしまいました。それだけに、天草に向かう途中で終戦を知った時には、「もう空襲は無いんだ、夜逃げなくていいんだ」と本当にうれしく思いました。天草に上陸する時に見た海の美しさには、心洗われる気持ちでした。子ども心に、平和のうれしさを実感したのです。
 ところが、原爆は、私の健康を奪いました。私の人生は先のみえない闘病人生となりました。「貧乏でもお母さんと一緒がいい」と言ってくれた子どもと、被団協や東友会の仲間の励ましがなければ、到底、今の自分はありません。
 被爆者は年々年を取り、日々の生活が苦しくなっています。私は、以前東数男さんの裁判を傍聴した時のことが忘れられません。東さんは、肝機能障害で弱った身体をおして、入院中の病院から裁判所に来て証言をしていました。東さんの姿をみて、自分はまだ動けるのだから何かしなければ、と強く思うようになりました。私が声をあげることで、一人でも多くの被爆者が救済され、日本が二度と戦争をしない、核兵器を絶対に許さない国になれば、との思いから、この裁判に加わることにしました。これが、原爆で命を失った人々に対するつとめでもあると思います。たとえ、かたつむりのような歩みでも意味があると信じています。
 どうか、私の病気を原爆症と認めてください。そして、戦争と核兵器は絶対に許さないと判決してください。