東京訴訟結審 中山勇栄さんの証言
(1) 私は、島原半島の小浜町で生まれ育ちました。子どものころから、走るのも泳ぐのも得意で、マラソン大会や水泳大会でもいつも1番でした。私は、先生から「銃後の守りのため」「お国のために働きなさい」と言われ、昭和20年4月から、女子挺身隊の一員として、三菱兵器茂里町工場で、魚雷の仕上工として働き始めました。14歳でした。
(2) 私は、爆心地から1キロの三菱病院浦上分院1階で被爆しました。火傷はしませんでしたが、無数のガラス片・木片が頭、肩、腕、背中、お尻、足などの身体の後ろ全体に刺さっていました。また左手の人指し指と中指が、建材の下敷きになったのか、ぐちゃぐちゃになっていました。バス通りには、ぴくりとも動かない大勢の人間が倒れていました。馬車につながれた馬が立ったまま燃えていました。電信柱が燃え、路面電車も停まったまま燃えていました。目の前にそびえていたはずの三菱製鋼の大きな工場は、屋根がなくなり曲がった鉄骨がむき出しになっていました。腰が痛くて身動きもできなかった私は、そういう光景を見て「ああ、私もこのままここで死ぬんだ」と思いました。
(3) しかし、たまたま顔見知りにトラックで運ばれて、私は浦上駅前の防空壕の中に寝かされました。そこには、若い女性ばかり8人がいましたが、翌10日の朝には5人が死んでいました。私は、防空壕で3日3晩腹ばいのままでした。治療も一切受けられず、食べるものもなく、防空壕の中に溜まった泥水をすすって渇きを何とか癒しました。
(4) 12日の朝、私は、伊良林国民学校に移されました。そして、偶然のことから私がそこにいることを知った両親が、13日の朝、迎えに来てくれました。私は小浜町に帰り、病院に入院しました。私は、入院直後から40度を超える高熱が約1週間続き、おう吐、吐血、下痢、下血を繰り返しました。身体に斑点も出てきました。髪の毛が全部抜け落ちて丸坊主になってしまいました。歯も全部抜けてしまい、私は14歳で総入れ歯になってしまいました。被爆後は17歳まで生理は止まったままでした。
(5) その後5年近く身体のあちこちからガラス片が出てきました。そのたびにできる傷口は化膿して、傷がいつまで経っても治りませんでした。うみが治まったと思っても、すぐにかゆくなって触っているうちにまた皮膚が破けてうみが出るということを繰り返しました。そのようなことが約5年間続きました。
(6) 父は、原爆投下時には、長崎から30キロ離れた小浜町にいたのですが、翌10日から私を捜しに長崎に来て茂里町工場の辺りを探し回っていました。その父は、私を迎えに来た直後から具合が悪くなり、私と一緒に枕を並べて入院することになりました。父は、口から血を吐き、下血をし、斑点が出て、髪も抜けてしまいました。その後一たん元気になりましたが、昭和26年、59歳のときに胃ガンで亡くなりました。
(7) 原爆で痛めつけられてから、私の人生はすっかり変わってしまいました。あんなに元気だったのに、その後の60年間からだ中の痛みとあらゆる病気の連続でした。この苦しみをせめて認定という形で償って欲しいと思います。