被爆者相談所および法人事務所
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東京訴訟第2回口頭弁論 梅園義胤さんの証言

(1) 私は、当時満5歳でした。小学校6年生の兄は学童疎開中で、父母と私、そして3歳の弟の4人が、広島市白島九軒町宮有3番地の自宅に住んでいました。
 8月6日、私は爆心地から2キロメートルにあたる自宅前の路上で被爆しました。朝食後、弟と外で遊んでいたときです。母は自宅の台所で朝食の後片づけをしていましたが、父は岩国に出かけており留守でした。
 突然土塀が倒れてきて何も分からないまま気を失いました。母が倒壊した自宅から這い出したところ、私と弟は、たまたま近くにいた兵隊に、土塀の下から助け出されていたそうです。弟は意識なくぐったりしたまま兵隊に抱かれ、私は額に大きなコブを2つ作って「痛い、痛い」と言っていたそうです。ただ、幸いなことに、土塀が閃光を防ぎ、火傷からは免れました。
 その後、私と母は弟を抱えて近くの防空壕に行きました。中は負傷者で一杯でした。私は、弟のために、必死になって、表の防火用水で布を何回も濡らして弟の胸や額を冷やしました。その甲斐あってか弟は無事意識を取り戻しました。
 でも、布を濡らしに外に出て、裏の川の近くまで行ったときにとても恐ろしい光景を見ました。たくさんの人が「水…水…」と言いながら列を組んで川に入っていくのに、それっきり戻ってこないのです。強烈な印象として、今でも脳裏に鮮明に残っています。
 夕方、私ら3人は、近くの父の上司の家に泊めてもらいました。翌日、父と再会し安佐郡の親戚の家に避難しました。父のひく大八車に乗っている途中、三朝橋を通って横川を横切るときでした。道路の端に、黒焦げで腹は大きく膨れ見るも無残な死体がたくさんあってかわいそうでした。
 母もかなりの重傷でした。両手と額に深い火傷を負い、背中や手足に無数の切り傷がありました。途中の治療所で、包帯代わりに巻いていたキレをとったときの母の姿、血だらけの凄惨な姿はとてもショックでした。これだけは一生忘れられません。母はその後もひどい発熱と傷の化膿で苦しんでいました。

(2) 私は被爆当時未だ5歳と幼かったため、自分の症状をはっきりと覚えていませんが、他人と比べて大変疲れやすい体になり、異常なだるさでいつもごろごろと家で横になっていました。また、翌年8月には、盲腸炎が腹膜に広がり大手術となりました。医者から、化膿しやすい状態のために手術後の回復が遅れて大変であったと聞いています。
 ただ、その後は特に体調を崩すこともなく、原爆のことも忘れて、健康に過ごしてきました。妻と結婚し、長男長女も生まれました。建設会社の事務として働き、このまま定年退職して穏やかな老後を過ごすつもりでした。

(3) しかし、1987年、47歳のときに左腎臓に腫瘍が発見されました。摘出手術を受けましたが、退院しても歩くのさえ辛くなりました。そのため、あと10年で定年でありながら仕事を辞めざるを得ませんでした。私は、元気だったのに突然病気になったことでショックを受け、大きく落胆しました。
 でも落胆はそれにとどまりませんでした。1995年に肺ガンの診断を受けたのです。そして、このとき初めて、摘出した腎臓の腫瘍はガンでありそれが肺に転移したことを知りました。それ以来現在に至るまで週2回、インターフェロンの注射を続けています。医者にリバウンドの恐れがあると言われており、この治療を止めることはおそらく一生できません。

(4) これまでに二度、原爆症認定の申請をしましたがいずれも却下されています。でも、原爆にさえ遭わなかったら、こんな病気にならなかったはずだという思いは変わりません。治療を開始して16年、病気にしばられた生活が今後も続くのは耐えられません。
 私と同様に、原爆症認定却下を受けた被爆者はガン等の病気で苦しんでいます。国は認定却下を繰り返して被爆者が死に絶えるのを待っているのではないでしょうか。強い怒りを感じます。
 先日、原告の右近君が悪性リンパ腫脳転移でお亡くなりになりました。彼は私の弟の同級生で、同じ町内で育ち、良く一緒に遊んだ友人です。お見舞いに行くと、右近君は起き上がり、手を握りあい、肩を抱きあい、涙を流して喜んでくれました。生前の彼の優しさ・家族思いが最後までありました。ただ、この裁判にかけた思いが叶えられなかった彼の無念さがいたまれます。
 裁判官の皆様に申し上げます。どうか私のこのような気持ちを理解してください。そして、一刻も早く解決して下さるようお願い致します。