東京訴訟結審 片山文枝さんの証言
(1) 私は、広島で生まれ育ちました。1944年、19歳で結婚し、ささやかながら幸せな新婚生活を送っていました。1945年6月には妊娠していることが判り、新しい命の誕生を心待ちにしていました。
(2) あの日、私は、東観音町にある妹の下宿にいました。爆心地から1.1キロです。夏の日差しがさんさんと照り返っていました。外の水道で手を洗おうと下を向いた瞬間、眼前が青白い光一色になりました。その直後、激しい爆風によろけ、ドーンという音を聞くや、舞い上がるほこりで目の前が見えなくなりました。
(3) 妹の下宿は、ぺしゃんこにつぶれていました。私と妹は、家の下敷きになった大家さんを助けてもらおうと、隣家に駆け込みました。しかし、隣家のご夫婦も、体中ほこりと血にまみれ、抱きかかえた子どもは死んでいました。私が「助けてください」と言うと、「もう1人子どもがいない。人のことじゃないんだ」と、怒鳴られました。2人で何とか大家さんを引きずり出し、逃げようとすると周りはもう火の海です。布団を被り火の中をくぐって走りました。途中、お巡りさんに、逃げる方向を聞くと、「今まで何をしていた!そこで死ね!」と怒鳴られました。とにかく山の方に逃げようと、己斐の方に向かって走り続けました。
逃げ出したころには、すでに黒い雨が降り始めていました。己斐駅裏の小さな丘に登るころには、雨は激しくなり、山肌をざあざあと小川のように流れていました。その中をしゃぶしゃぶと音を立てながら上ると、丘の中腹の神社にはたくさんの人が座りこんでいました。皮膚がズルリとむけて赤黒い肉がむき出しとなり、「痛いよう」「水をくれ」「助けてくれ」と呻いておりました。不思議だったのは、たいした傷もない人が、崩れるようにして倒れ、動かなくなっていったことです。
やがて雨が上がった後、眼前に広がる光景は忘れることができません。頭上には黒い雲が立ちこめ、宇品の方向は日差しが照り返っているのに、市内全域はどす黒い坩堝のようで、炎と黒煙が天まで上がっておりました。その炎と黒煙に飲み込まれた人間に思いを馳せ、自然とお経を唱えていました。
日が暮れてから、私たちは、実家を目指して歩き出しました。行き交う人は皆、「人間ぼろ」でした。皮膚のぶらさがった手を前に突き出して歩く人、目が見えないのかウロウロと這いずり廻る人、それらの人たちが人間とは思えない呻き声をあげていました。まとわりつく血と粘液の湿った音、それらの合わさった臭いの中に、物言わぬ赤黒い肉の塊となった遺体がごろごろと転がっていました。私たちは、その人たちを置き去りにして前に進むしかありませんでした。そして、その日の深夜に実家にたどり着きました。
(4) 8月8日、私は、八丁堀の広島銀行に徴用されていた叔母の子を探しに、市内に入りました。福屋デパートの崩れた建物に足を踏み入れると、どす黒い物体がずらりと並べられていました。呻き声すらあげられない息も絶え絶えの人間でした。治療はおろか優しい言葉の一つもかけられないまま息絶えていく、これが人間なのか、悲しみよりも強い怒りが体の奥から上ってきて、私は自分が分からなくなるほどにおののきました。結局、叔母の子の行方は、今でも判りません。
(5) その後、私は、急性症状に苦しめられ、死の淵を彷徨いました。何とか一命を取り留めましたが、この60年以上の間、健康だった日はありません。
(6) 被爆の翌年2月に生まれた娘は、原爆小頭症でした。私があの日あそこにいたせいだと自分を責めました。同時に、かけがえのない娘の人生に私の全生命をかけて償おうと思いました。娘は、とても思いやりのある優しい女性に育ちましたが、今でも時折「おかあさん、私はばかなんでしょう」と申します。その度に、胸の奥底をえぐられるような悲しみにさいなまれます。
(7) 原爆は、あの日、広島の全てを奪い尽くしました。人間が人間であることを奪いました。私たちの人生を奪いました。私たちは、この60年以上もの間、なぜこんなにも苦しまなければならなかったのでしょうか。私の原爆症認定申請を却下した国は、私の苦しみは自業自得だと言っているようです。
当初、この裁判において、娘のことは言いたくないと思っていました。しかし、この世に生を受けたその日から原爆の被害を物語ることになった娘のことこそ、後世に伝えねばならないと思うようになりました。私は、もうわずかしか残されていない自分の生命をもって、この裁判を闘い抜き、娘と私の苦しみがなぜ存在するのかを伝えなければなりません。それを伝えるために、私は生命を与えられました。人が二度と再び私たちのような人生を歩むことのないよう、祈っております。今日は、原爆にむしばまれたこの体を押してここにまいりました。どうか、私たち被爆者の苦しみをご理解いただき、この願いに真摯に応じてくださるよう、お願いします。