被爆者相談所および法人事務所
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東京訴訟第6回口頭弁論 福地義直さんの証言

(1) 私は当時14歳でした。爆心地から約1.1キロの広島市国泰寺町の自宅内で被爆しました。着替えをしているとき、突然ものすごい強烈な光と圧力を感じ、「お母ちゃん」と叫んで3・4メートル家の中を走るとほぼ同時に、家の下敷きになりました。後ろを振り向くと光が見えた瞬間、私は横向きに倒されました。体の上には、釘のついた板や柱が崩れ、鼻や足の腿に刺さりました。特に、腿には太い釘が刺さりました。その釘を手で引き抜いて、外に這い出ようとしましたが、なかなか外に出られず、左半身には大小無数の刺し傷や擦過傷を負いました。崩れた建物で巻き上がった一面砂埃の中、声を出しあって母を何とか助け出しましたが、先ほどまできれいで美しかった母の姿はお化けのようでした。髪の毛はなく、皮膚は焼けて目と鼻だけのつるつるの顔で、白い骨まで見え、背中から手先までガラスの破片と火傷で血だらけでした。
 爆風で近所まで飛ばされた妹の上にも、頑丈な梁が被さっていましたが、必死の思いで助け出しました。
 父は、疎開先の川内村から市内の自宅に帰る途中だったので、今でも遺骨も見つかっていません。
 私たち母子3人は宇品方面が爆撃されたのかと思い、西練兵場に行くことにしました。市役所の裏通りから袋町小学校(爆心地から600メートル)まで行ったところで、大怪我をした兵隊さんから西練兵場は「やられた」と聞き、市電通りを袋町から白神神社、公会堂前、市役所まで歩いて戻りました。私たちが、それまでに会ったのは兵隊さんだけで、あとはまったく無人の町でした。
 市役所の前にきたとき、地下室から女学生が数人出てきて「助けて」と言われて倒れました。見かけは正常で無傷でしたが、口から血をだしており、お腹がふくらんでいました。私たちは、その女学生の1人を連れて鷹野橋から日赤病院に向かいました。病院の門前で軍医さんが、「これはひどい」と言って、母にヨードチンキをかけて治療してくれました。しかし、助け出した女学生には口を結んで、何の治療もしませんでした。病室のカーテンを包帯代わりに使っていました。お腹が空いたので、砂糖を取りに行こうと1人で熱いアスファルトの上を裸足で走って自宅まで戻りましたが、ちょうど家は燃えており、煙と火と太陽熱で熱くて熱くて、私はすぐに引き返しました。途中でカラの市電の車両の中で休んで、そこに落ちていた脱脂綿を拾い、日赤病院に引き返しました。
 しばらくして父が迎えに来ているかもしれないと母が言うので、女学生を病院に残して、再び3人で歩き出しました。病院から自宅のある鷹野橋まで戻り、そこから明治橋、住吉橋を渡って本川にそって産業奨励館、すなわち現在の原爆ドームへ。あたりの人は髪の毛は縮れ、皮膚はなく、赤い肉が丸出しで、手はつり下げ、無言で歩いていました。男女の区別もわからない人々、「水、水をください」と叫んでいる人、衣類はなく、まともな顔でなくても、みんなが同様の姿ですから、恐ろしくなく、私は無感情でした。私には母の大怪我の方が心配で、街を見るゆとりはありませんでした。母が少しずつしか歩けないので、足下ばかり見ていました。妹はだまって後についてきました。
 可部線が不通でしたので、私たちは避難する人々とともに古市の駅まで歩きました。これはまるでお化けの行列でした。古市駅から一番電車に乗って、七軒茶屋の駅で下車、川内村の疎開先近くまで戻ったときに、村の人たちが「街から帰ったぞー」っと叫んでいました。その村のご主人たちは、爆心地近くに建物疎開に出ていて、全員が亡くなられたそうです。私たちが村に帰った最初の被爆者でしたが、着いたときは夕方になっていました。

(2) 私は、川内村に戻った翌日から発熱、嘔吐を繰り返しましたが重傷の母と幼い妹の面倒をみることで必死でした。坊主頭がかゆくなり、かくと短い髪の毛がぽろぽろ抜け始めました。帽子をかぶっているせいかと思いましたが、抜け毛が多いのは異様でした。むし暑さと膿のくさい匂いにつられて蝿が集まり、母の顔や背中にウジ虫がいっぱいわきました。肉に噛みついているので箸で一匹ずつ取ろうとすると母はとても痛がりました。
 疎開先で待っていても、父は戻ってきませんでした。8月9日頃の夜、母のフトンの四隅に父が現れ、「子どものこと、よろしく頼む」といったそうです。私は母の看病や食料調達に一生懸命の毎日でしたが、8月12日に父をさがすためと、お金を引き出すために入市しました。通帳も印鑑もないので、泣きながら銀行や郵便局に相談にいきました。写真屋をしていた自宅の焼け跡には、大きなレンズがたくさん溶けて転がっており、薬品のびんも変形していました。方々で遺体が焼かれていましたが、私は無感情でした。この辺りかな、この辺りかなと父のことを気にするばかりでした。結局父は見つからず、爆心地の周りを歩きました。その後も父をさがそうとしましたが、私も疲れが激しく、母のことが心配で、家を留守にすることはできませんでした。

(3) 昭和21年、22年頃は、いつもだるく、座っているのさえだるく、膝で上半身を支えている状況でした。私たちは昭和23年に東京に移り、復員した兄とともに生活しました。この頃も、きついときは、だらっとして歩けませんでした。いつも眠く、徹夜で勉強することなど到底できませんでした。
 私の髪の毛は、しばらくしたら生えてきていました。でもまた抜けてしまうのが嫌なので、中学生時代、自分だけ髪の毛を伸ばしていました。校長先生に「髪を切らないと高校の推薦状を書かないぞ」と言われても結局切りませんでした。
 東京に来てからは、できるたけ人には被爆者であることを話しませんでした。

(4) 昭和28年頃に原因不明の発熱や腹痛で、都立墨田病院に入院しました。開腹手術をしましたが、病名が不明のまま退院しました。その半年後、東大病院に入院して腎臓結石が発見され、手術を受けました。そのとき、尿路と大腸が瘻孔という穴でつながっていることもわかり、手術を受けました。
 また、睾丸の発育が13歳位で止まっていると言われ、二度も手術を受けました。2回目の手術のとき、20人位の先生方の前で「被爆の影響も考えられる」と言われました。被爆後常に体調の悪さを感じていたので、やっぱりそうかとショックを受けました。
 昭和31年に姉の紹介で結婚しましたが、私は妻に被爆したことを話せませんでした。しかし妻は、姉から私が被爆していたことを聞いていて、5年位しか生きられないのではないか、と思っていたそうです。
 昭和42,43年頃に肝臓が悪いとの診断を受け、さらに5年たって倦怠感が強くなり、仕事にも差し支えるようになったため、病院に通うようになりました。入院して、インターフェロン治療を受け始めるようになりましたが、私には効果がありませんでした。現在も肝硬変症、C型肝炎で週2回通院しています。
 平成10年には、腎盂腎炎を起こして入院しました。平成14年には肝硬変が進行して、食道静脈瘤がたくさんできているということで、そのうちの8カ所の静脈瘤を内視鏡で結束してもらいました。

(5) 私は、普通並の健康とはどんな状態をいうのかが分かりません。14歳で被爆して、その後ずっと体調が悪いことが当たり前だったからです。普通の人の普通の健康状態がどんなものか自分も味わってみたい。いつもこう思っていました。
 また、私は長い間、人に被爆体験を話すということはありませんでした。それをかえるきっかけとなったのは、先日判決が出たばかりの東裁判です。東さんがC型肝炎であるということを知り、私と同じだと勇気を出して支援のため、また自分のために名乗り出ました。やっと最近になって、きょうのように人に被爆体験を語れるようになったのです。また2年前より、自宅を常設の原爆写真展の展示室にして、実物大の原爆も作って展示しています。
 父は行方不明のままで何の公報もいただいていません。母は、15年前に亡くなりました。被爆で亡くなった他の方々も、何の罪もなかった人々です。あの人々も、自分の惨めたらしい姿を見せたくなく、平穏な姿で一日も長く生存していたかっただろうと思います。私も、人を見殺しにしたり、死体をまたいで逃げましたので、本当にすまないことをしたと、自分を憎み、原爆を憎んでいます。私は恐怖心よりむごたらしい体験をしました。これが原爆の被害であるということを是非お分かりいただきたいと思います。