東京訴訟第1回口頭弁論 加藤力男さんの証言
(1) 私は、昭和20年8月9日、爆心地から約2キロメートル離れた長崎市中之島の陸軍高射砲の陣地で被爆しました。当時、20歳でした。その年の3月に入隊して、3ヶ月の訓練を受け、実戦配備されてふた月ほどのことでした。
(2) 原爆が炸裂する直前、B29の爆音に気づいて戦闘態勢につき、上空を見上げると落下傘をつけたドラム缶のようなものが見えました。その瞬間、ものすごい閃光と熱線、そして爆風を受け、私はその場にたたきつけられました。一瞬気を失ったのですが、当初は、何が起こったか理解ができませんでした。太陽が落ちたのかとさえ思いました。黄色い空気が周囲を急速に流れている感じがしました。気がつくと靴や服に火が点いており、あわててもみ消しました。そのうち、顔や首筋に強い痛みを感じ、思わずうずくまりました。火傷でした。半身裸であった古年兵が「やられた」等と大声で叫びながら、半狂乱で右往左往している様子が目に入りました。
やがて、顔面や、頭部等、火傷したところが、どんどん腫れ上がっていくのを感じました。兵舎が火災で燃えているようでした。しかし、それにもかかわらず、周囲は不気味なほど静寂であった印象が残っています。
(3) 暫くして、陸軍のトラックが1台来て、負傷兵を収容しました。私も名前を告げると「重傷」と言われ、抱きかかえられてトラックに積み込まれるように乗せられ、中之島から南山手の陸軍の兵舎に移動しました。その際、恐怖から髪を逆立て、傷ついた沢山の人々が逃げまどう姿が見えました。皆裸足でした。多くの人は私どもと反対の方角へ向かって進んでいくのです。後で思うと市街地の方向でした。その中をトラックが縫うように走っていくのです。私は、トラックの荷台の端にいました。徐々にやけどのために瞼が垂れ下がり目が見えなくなってきたのですが、そのとき、「兵隊さん助けて下さい」と髪を逆立て、顔を引きつらせながら救いを求め、トラックにすがる老女が目に入りました。でも、トラックは止まりません。「可哀想に、自分たち軍人だけが助かって良いのか」と思いましたが、何もできませんでした。その顔と声が、目と耳に残っています。このときのことを思い出すと、今でも寝付けません。
(4) やがて火傷のために目がふさがれて見えなくなり、そのまま長崎市南山手の鍋冠山にあった陸軍兵舎のようなところへ収容されました。そこでは治療らしい治療も行われず、頭痛と火傷の痛みが強くなり、やがて意識を失ったのです。そのため、敗戦を知ったのは、8月21日頃に見舞いに来た衛生兵からでした。
(5) 8月23日に佐賀陸軍病院へ行き、翌日に川上温泉郷にあった陸軍の保養施設へ移動しました。そして、このとき初めて軍医の診察を受けることができました。血液検査の結果、白血球が異常に多いと指摘されました。新鮮な食料をとるように指示を受けました。しかし、火傷は化膿し、異様な倦怠感と、発熱、下痢、おう吐が続き、9月に入ると髪の毛が抜けていきました。しかし、温泉で治療をしたせいか、徐々に症状も治まりました。でも、頭痛、発熱、おう吐、下痢、倦怠感のため、寝たり起きたりの状態が翌年まで続きました。火傷のかさぶたがとれ、完全にふさがったのは、翌年の5月頃のことでした。
(6) 私は、故郷の佐世保へ戻り、少しずつ、畑仕事を初め、そして、昭和21年4月から知人の世話で以前働いていた銀行に勤務するようになりました。しかし、就職して2年ほどした5月に職場で倒れ、高熱と頭痛、そしてめまいのため2週間休んだことがあります。医者からはあんたたち、つまり被爆者の場合、手の施しようがないといわれました。そして、それから後、時々悪夢に襲われました。手のひらが顔を覆い、また、トランプに上から覆われる夢です。
(7) このようなことに加えて、絶えず疲れやすかったこともあり、私は、原爆と戦争が憎くてたまりませんでした。日本が早く戦争をやめていれば、私がこんなに苦しまなくても良かったのにという思いが抜けなかったのです。徐々に再軍備が進み、「被爆」はやむを得ないものだというムードが広がっていき、私の中で孤独感が強まっていきました。そんなことから、銀行で政治的な意見を述べ、それが孤立に拍車をかけました。また、昭和26年頃には、自分が被爆者だったことが理由だと思うのですが、進んでいた縁談が破談となりました。そんなことから銀行に居らられなくなり、昭和27年7月に銀行を辞めたのです。
(8) その反動で、今度は、佐世保の米駐留軍に勤務するようになりました。その後、立川基地、神奈川の弾薬司令部と移動しました。しかし、神奈川での仕事が、ナイキハーキュリーズ等の攻撃的な兵器を扱う部署であったことから耐えられなくなり、退職しました。昭和33年のことでした。その後は、日雇いで働く等の無理をしました。この間ずっと、貧血と頭痛に苦しめられてきました。
関東へ移ってからは、孤独から遊びにお金を使い、仕送りもしなくなり、実家との連絡を取らなくなりました。
(9) 昭和42年に日雇いの労働組合の人から紹介を受け、被爆者健康手帳をとりました。それからは少しずつ、被爆者としての自覚をもつようになり、健康診断を絶えず受け、摂生につとめてきました。しかし、それにもかかわらず、貧血と頭痛、更には倦怠感に悩まされてきました。また、年に何回か微熱がでることがありました。皮膚にできる吹き出物がなかなか治りません。10年ほど前には、帯状疱疹になったことがあります。更に少し疲れると、トランプが顔を覆う悪夢をみました。
そして、絶えず、不安があり、収入が少ないこともあり、結婚もしませんでした。なお、その後も家族とは連絡を取らず、昭和48年に母が死んだことを知ったのは、昭和51年頃に会社に勤務する際に戸籍をとったときのことでした。
(10) 平成13年の定期検診で胃癌が発見され、その年の12月に代々木病院に入院し、平成14年1月に同病院において胃癌の切除手術を受けました。癌になり、やっぱりと思いました。切除後、胃は小さくなり、抗ガン剤を飲み続けています。無理して食べるようにしているのですが、食事に味がなく、栄養のバランスがとれません。そのため、疲れやすくて仕方がないのです。
(11) 振り返ると、よくここまで生きてきたと思います。他面、原爆にあわなければ大切な年代を無駄に過ごすことはなかったのにと思います。原爆に翻弄されてきたという思いが抜けないのです。そして、今、癌に苦しんでいます。
あんな惨いことは二度とあってはならないと思います。そして私たちのような苦しみは私たちだけにしてもらいたいと思います。そのことを分かってもらえない悔しさはなかなか理解してもらえません。この裁判を通して裁判所に是非理解して頂きたいと思います。そのためにも生き抜きたいと思います。